後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

原発ゼロ支持、47%に増加・・・討論型世論調査 ・・・容認約3割は変わらず

2012年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は日本経済新聞、8月25日(土)のインターネット版です。

<form class="cmn-form_area JSID_optForm_utoken" id="JSID_formKIJIToolTop" action="https://app.blog.ocn.ne.jp/async/usync.do/?sv=NX" method="post" jquery1345879606187="4">

政府は22日、中長期のエネルギー政策を巡って実施した「討論型世論調査」の結果を公表した。2030年時点の原子力発電への依存度でゼロを支持する参加者が討論を通じて33%から47%に増えた。一方で一定の原発比率が必要とみる割合は合計で約3割あり、あまり変わらなかった。

96958a9693819591e0e0e2e2e78de0e0e2e

</form>

政府は同日、原発比率に関する世論調査やパブリックコメント(意見公募)を検証する会合も初めて開いた。公募した意見のうち約7千件を集計した結果、「即時の原発ゼロ」を求める意見が全体の81%に上った。

 政府は30年の原発比率で3つの選択肢(0、15、20~25%)を示し、15%を軸に検討してきた。「冷静に議論すれば原子力の必要性が理解される」との期待もあっただけに、討論型世論調査の結果を「誤算だった」(経済産業省幹部)と受け止める声も出ている。

 討論型世論調査は3段階に分け(1)7月7日から22日にかけて無作為に選ばれた6849人を対象に世論調査(2)8月4日から2日間の討論会に参加した285人が討論前に回答(3)討論後に回答――の要領で実施した。

 最初の世論調査で原発ゼロのシナリオを支持した割合は全体の32.6%。これが討論前の段階では41.1%となり、討論後に46.7%に高まった。原発比率15%シナリオを支持する割合は16.8%→18.2%→15.4%。20~25%シナリオの支持者の割合は13.0%→13.3%→13.0%とほぼ同率で推移した。

 原発比率の判断材料で「安全の確保」を最も重視すると答えた比率は一連の調査を通じて上昇。逆に原発の活用で「地球温暖化の防止」を重視する人の比率は低下した。

 電力コストの上昇による企業への負担増や経済競争力の低下は議論の中心になっていない。政府は討論型世論調査のほか意見聴取会など「国民的議論」の結果を分析し、中長期のエネルギー戦略を固める。

参考資料:

討論型世論調査 討論や質疑応答を通じて参加者の意見がどう変化したかを調べる世論調査。無作為抽出の対象者に討論会への出席を打診する時点と、討論会の前後でアンケートを実施し、意見がどう変わったか分析する。1988年に米国で考案された方法で、英国など世界で実施例がある。日本では神奈川県藤沢市が総合計画の策定に役立てるため2009~10年に実施した。

以下の図面は朝日新聞インターネット版の図面です。

Tky2012082202871_3 


昔懐かしい農家の写真をお送りします

2012年08月25日 | 写真

026

018

021

025

023 024 019_2

022 017 013

この農家は現在の立川市の古民家園に復元展示してある小林家です。

小林家は江戸時代には旧砂川村九番組に属していました。嘉永5年(1852年)と書いた板が屋根裏にあったのでその頃の建造と推定されています。場所は立川市幸町4-65で月曜日は定休日です。入場無料で、駐車場がついています。午前9時から午後4時30分まで開いています。問い合わせは立川市歴史民族資料館(電話042-526-0860)です。


急激に変化する日本人の価値観(3)和風料亭が消え、ファミリーレストランが増加

2012年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

062

和風料亭が消え、ファミリーレストランが増加する現象は経済的な理由だけではありません。

もう一つ深い理由があると思っています。その理由とは日本人の価値観の変化なのです。

先日よく行っていた和風料亭の魚観荘が廃業しているのを発見し、ショックを受け、何故か深く考えだしました。

魚観荘は上の写真のように多摩川の羽村の堰近辺の向こう岸にありました。

美しい広い庭園と、鯉や岩魚の泳ぐ深い池に囲まれた座敷で和食のコース料理を出していました。庭の竹林の中には風流な茶室も見えます。値段も手ごろで普通の家庭なら一家で楽しめるような料亭でした。そこで2年前にこのブログで、白壁の塀の料亭と郷土博物館の風景写真 という記事で皆様にもご紹介しました。

その料亭に先日寄ってみました。大きな料亭があとかたも無くなっています。雑草だけが茫々と生えています。ショックを受け、裏に回って見ましたら、昔風の白い塀だけが当時の繁盛ぶりを偲ばせているのです。下にその様子を示す写真を掲載してあります。

さて、和風料亭が消え、ファミリーレストランが増加するのは何故でしょう?勿論、代金が安いからという理由もあります。しかし最近の日本人が好む接客やサービスが変わって来たからです。

昔の日本風の接客の仕方よりもアメリカ流のマニュアル化されたドライな接客の仕方が好きになってしまったのです。

この接客の仕方の違いは昔の旅館の接客とホテルの接客の違いを考えると明快に理解できます。

旅館では女中さんが客の荷物を持って部屋まで案内して、お茶を淹れてくれます。そして後ほど宿帳を持って来ますから一休みしてくださいと言って下がります。暫くすると又その女中さんが顔を出します。ようするに女中さんが何度も部屋に来て世話を焼くのが最上のサービスなのです。

一方ホテルではフロントで鍵を渡して、困ったことがあったらフロントの9番へお電話下さいと言われてお終いです。

部屋に落ちついて、さて近所を散歩しようとフロント9番へ電話し、何処を散歩したら良いか聞きました。そうすると私の散歩の好みを親切に聞いてくれて幾つかのコースを明快に教えてくれます。ようするにお客には干渉しないが、助けを求めたら過不足なく助言してくれるのです。

和風料亭では旅館と同じような接客方法をとります。和服を着た仲居さんが何度も部屋に来てあれこれ世話を焼くのです。世話の仕方がマニュアル化していないので仲居さんのサービスにバラツキがあるのです。その上、仲居さんがお客を品定めするように観察するのです。

ようするに鬱陶しいのです。料理が美味でも接客方法が鬱陶しいのです。客足が次第に遠うのきます。

それでも1990年前後のバブル経済崩壊前には近所の会社が接待用に料亭を使いますから繁盛したのです。

魚観荘は家内と一緒に30年間ほど時々行ったものです。しかし次第に仲居さんのサービスが重荷に感じるようになって足が遠のいて行きました。

自分達がレストランのドライな、それでいて過不足のない上質なサービスが好きになってしまったのです。

理想的な接客方法や、客が期待するサービスの内容は人々の価値観の変化によって急速に変わって行くものなのです。この世のものは全て変化して行くのが定めです。

日本人の価値観も変われば、文化も変わります。過度に伝統文化にしがみ付くのは如何なものかと思う今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

03621

魚観荘の数多くの座敷のある大きな母屋の庭には上の写真のような茶室がありました。

それが先日寄ったら何もかも消えて無くなり下の写真のように雑草と雑木が茂って」いました。

064

悲しくなって、裏の方へ行って見ると白い塀だけが昔と変わらず続いていました。

しかし中の様子をみるとあの見事な庭園が荒れ果てて、夏草だけが茂っていました。

067


秋近し、栗畑も実りを迎えています

2012年08月24日 | 写真

残暑厳しい毎日ですが、秋の気配が空に地上に漂っています。栗畑では青いイガが大きくなっていました。その秋の足音を感じさせる写真をお送りします。

この残暑をもう少し頑張りましょう。耐えましょう。

014

013

001


武蔵野国分寺七重の塔跡と東山道(とうさんどう)武蔵野路の位置関係

2012年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の行政区分は天武天皇時代(672年~686年)に畿内五国と東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の五畿七道に区分されました。@@道とは道路の名前でもありましたが、現在の北海道のように大きな行政区画も意味したのです。

私が現在住んでいる場所は東山道の中の武蔵野国に属していたのです。そして武蔵野国から都へ登る道は東山道武蔵野路だったのです。当時は江戸も東京も存在していませんでした。そして武蔵野国の国府が現在の府中市にあったのです。

741年に造営の始まった武蔵野国分寺はこの東山道武蔵野路が府中に達するその入り口にあるのです。下の図面をご覧下さい。

Tmkmap11

武蔵野国分寺は西暦800年以前に完成しましたが、1333年に鎌倉幕府が崩壊するときに近辺の分倍河原で合戦があり、すべて焼失してしまったのです。500年余の命でした。

国分寺の金堂跡は発掘調査され位置や規模も分かっています。そして金堂の南東に七重の塔もあったのです。その七重の塔は「続日本後記」によれば西暦835年に雷が落ちて焼けてしまいます。しかし10年後に現在の埼玉県のある郡の長官が再建します。この長官の名前は壬生吉志福正(みののきしふくしょう)という名前でした。万葉仮名を連想させる不思議な名前ですね。(想像を逞しくすれば、アイヌ人だったのかも知れません。)

この7重の塔は後世に焼け落ちてしまい礎石だけが残っているのです。何時、焼け落ちたかは分かっていませんが、私は鎌倉幕府の崩壊の時の1333年前後の国分寺の焼失の折に一緒に燃えてしまったものと想像しています。

今日の午前中、この七重の塔跡の隣に車を停めて、金堂跡まで散歩しながら写真を撮って来ました。奈良時代や平安時代、そして鎌倉時代と栄えた国分寺の様子をご想像しながら写真をお楽しみ下さい。

雲のたたずまいは何となく秋の気配ですが地上は37度の酷暑でした。

027

七重の塔跡のまわりは広い平地になっています。往時は僧たちの住む僧坊が並んでいたのかも知れません。

024

上の写真の七重の塔の礎石の下を発掘すると焼けた瓦が礎石の下に敷きつめてあり、西暦835年以後の再建と合致する証拠と考えられています。なお上の写真の礎石は本物でない可能性があります。そして昔の礎石の位置は現在の地面より約1mほど深い場所にあったと私は想像しています。金堂の礎石と同じ高さに有った筈です。

004

上は七重の塔跡から北西へ200m位離れた金堂の跡の礎石です。この礎石は最近の研究で分かった柱の有った場所に近所で拾って来た大石を並べたもので本物ではありません。

元来は現在の地面より約1m深い所に当時の地面があり、写真にある礎石は1m下にあったはずです。

昔の武蔵国分寺の周囲には数多くの僧侶や尼僧の生活を支える使用人の家々があり、かなり賑やかな一区画を形成していた筈です。しかし、それも鎌倉幕府の崩壊とともに消えてしまったのです。

時代が下って、戦国時代に太田道灌が江戸城を造ってからは武蔵野国の中心は次第に府中から江戸の方向へ移動して行ったのです。

現在はその面影も無く、夏草だけが茂り、ミンミン蝉が耳を聾せんばかりに鳴いていました。

(終り)


急激に変化する日本人の価値観(2)結婚しない人と離婚の驚異的な増加

2012年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の経済成長が急速に伸びていた1980年頃から結婚しない人、結婚してもすぐ離婚する人が次第に増加してきました。

東京都の場合、2010年に、30歳男性で結婚していない人は43.7%で、全国一でした。女性は34.1%でした。確かに東京都は男女ともに一位ですが、全国平均もあまり変わらない数値です。

一方、東京都の2010年の人口は約1300万人で、結婚数はここ数年横ばいで年間80000件です。それに対して離婚数は26000件でした。

この東京都が行った調査結果に、私は驚きました。動転しました。

結婚しない男女が驚異的に増加し、結婚したカップルの3組に1組はすぐに離婚しているのです。この事情は東京都が一位ですが、全国的にもあまり変わらない数値です。

詳しくは、東京都の「人口動態調査結果」、http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2012/01/60m1u200.htm を是非ご覧下さい。

高齢者の皆様は、上に述べた事実に必ずや驚くと思います。

経済的余裕が出来れば結婚しない人や離婚する人が増加するのだと簡単に理解するのは雑すぎます。この現象の原因は、経済成長の他に、日本人の結婚へ対する価値観が大きく変化した事に由来すると考えるべきです。

従来の日本の伝統的な文化では結婚して子孫を作り、家系を守ることが重大な義務だったのです。

しかし経済の高度成長とそのバブル経済の崩壊を体験した多くの日本人は伝統的な価値観に疑問を感じ始めたのです。

恋愛や結婚は人生において本当にそんなに価値あるもでしょうか?もっと他にも重要な、そしてもっと楽しい事があるのではないか?結婚して家庭に縛られて一生過ごすことより自由な独身を通して好きな仕事や活動、趣味をしたい。

その上、自分の親の不仲や、親子の確執を見ているととても結婚する気持ちにならない。家族関係はうまくゆくと幸せになれるが、うまく行かないと地獄だ。そのうまく行かない場合があまりにも多いのが実情だ。そんなふうに考える人々が多くなったのです。

昔、我々が結婚した時代には、結婚は社会的な責務だと言う人がいたものです。結婚しない奴は信用できない。結婚しない奴は会社で偉くなれない。などど公言する人が多かったものです。
先日、そんな時代を鮮明に思い出すきっかけがありました。それは下に示した奥多摩の鳩の巣駅を訪ねた瞬間でした。52年前の1960年の夏に家内とはじめてのデートで降り立った木造の駅舎が当時のままの様子で建っていたのです。

当時は結婚出来ない男は駄目だという風潮でした。やっと結婚出来そうになってやれやれと思ったものです。その上幸運にも、鳩の巣渓谷を案内してくれた女性が上品で優雅だったのです。

時代によって日本人の価値観がどんどん変わって行きます。全てが変わるのがこの世の定めです。喜びもせず、悲観もせず、ただ奥多摩川の清い流れを眺めるように私は日本人の価値観の変化を眺めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

122

1960年当時も駅舎はこのような木造の小さなものでした。

127

左の屋根の下や柱のペンキの色も当時のままです。不思議です。

126

降り立ったホームから見た鳩の巣渓谷の向こう側の山並みは52年前と同じでした。


カラスウリの不思議な花が沢山咲きました

2012年08月23日 | 写真

8月19日に、この繊細な羽毛のような花をご存知でしょうか? という記事を掲載し、カラスウリの花をご紹介しました。

その花が次第に増えて、東側の塀の上にいっぱいに咲きました。その写真を前の記事への追加としてお送りいたします。

002


気分が爽快になるパラオの海の写真をお送りいたします

2012年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事の前の2つの記事は暗い、悲しい戦争の記事でしたので、気分が爽快になるパラオの海の写真をお送りいたします。

先週、一家でパラオに行った孫の高校一年生が撮った写真です。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

124

077

125

798

709


20世紀は大戦争の世紀(7)ドイツ人自身がナチス6500人を裁判にかけた

2012年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

朝からこういう記事を書くのは憂鬱なものです。しかし本当の平和を確かに持続させる為には書くべきと心を振るい立てて書くことにしました。

ですから読む方も始めの数行だけは是非お読み下さい。

戦後、日本では戦争を指導した政治家や軍人をみずからの手で逮捕し、裁判にかけ、処刑をしようという発想がありませんでした。

ところがドイツ人は全く違ったのです。ナチス一派の政治家や軍人を6500人以上逮捕し有罪にしました。オーストリアでは13607人が有罪になり43名が死刑判決でした。

ドイツ人自身がドイツ人のナチス一派を戦争犯罪者として逮捕したのです。

日本人は生き残った参謀や高級将校を逮捕して、裁判にかけようとはしませんでした。

開戦を指導した政治家も逮捕しません。軍に没収された財産の返還を求める裁判もしません。特高警察で違法な暴力を受けた市民も裁判にかけませんでした。インパール作戦のような無駄死を命令した参謀を逮捕しませんでした。未成年の沖縄の女学生や中学生を駆り出して、死なせた沖縄防衛軍の生き残り将校を逮捕しませんでした。

この日本とドイツの相違は文化の相違です。個人の責任を重視する欧米の文化と、個人の責任があいまいで、個人の責任を重視しない日本の文化の違いです。

21世紀を完全な世界平和の世紀にするためにはこの文化の違いも考えて、どちらの文化にしても戦争のキッカケになる事をしないことが重要です。小な島の領有権で争いのは危険なことです。

以下に、ドイツ現代の歴史の非常に優れた研究者である清水正義氏の研究発表をご紹介いたします。清水正義氏の研究は日本人が高く評価して、もっと注意深く読むべき成果と思います。

特にドイツの戦後の戦争にまつわる裁判は日本の新聞が殆ど報道しなかったようです。

私も詳しく知りませんでした。多分マッカーサー司令部が新聞報道を規制していたものと私は想像しています。日本とドイツの占領政策は切り離して、マッカーサー司令部は日本だけを混乱なく統治したかったのかも知れません。あるいは昭和天皇を裁判にかけようとする運動を無いものにしたかったのかも知りません。

もしご気分が悪くなければ、以下の清水正義氏の明快な研究成果も是非お読み下さい。

=====ドイツ人自身によるナチス一派の裁判===========

出典は清水正義氏のホームページです。

http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/qanda/vergangenheitsbewaeltigung.htm

戦後ドイツはナチスの過去と深刻に向き合ってきました。この過去との対決のことをドイツ語では「Vergangenheitsbewaeltigung」といい、日本では「過去の克服」と訳しています。

「過去の克服」は次の5つくらいの方向でなされています。

第一に、ナチス犯罪者を処罰することです。第二次世界大戦後、連合国のニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスなどナチス指導者が裁かれました。また戦勝各国それぞれがナチスの犯罪者を裁く裁判を行いました。さらにその後、ドイツの国内裁判でナチスの幹部や犯罪実行者などが裁かれ、この国内裁判だけで現在までにおよそ6500人程度が有罪にされています。

日本でも、太平洋戦争後、連合国による東京国際軍事裁判や連合国によるBC級戦犯裁判が開かれていますが、その後、ドイツのように国内裁判で戦争犯罪人を処罰することはありませんでした。この点で、ドイツがナチス犯罪者を処罰しようとする姿勢は、日本人から見ると際立っているように見えました。しかしユダヤ人など被害者側から見ると、まだ不徹底であるという批判がされています。

第二に、ナチス関係者を公職から追放したことです。戦後、連合国によってナチス党は禁止され、ナチス党員は自らの過去を占領軍当局に報告することが義務付けられ、公職を追放されました。ただし、公職追放は連合国の方針の不統一や冷戦の開始などの政治状況の変化によって不徹底なものにとどまりました。とくに裁判官などの場合は簡単に人員交代ができないこともあって、元ナチス党員が戦後も枢要な地位にとどまったと言われています。

第三に、ナチス暴力の被害者となった個人に対して金銭や現物返却による補償措置がとられました。最初のうち、ナチスによって財産を没収された人(とくにユダヤ人)の財産返却のための措置がとられ、ついで、イスラエルやヨーロッパ諸国の人たちを対象に金銭による補償措置がとられました。そして、ドイツ国内在住の被害者に対して連邦補償法による金銭の補償措置がとられるようになり、これがドイツ戦後補償の基本となりました。近年になって東欧諸国からの戦時強制労働被害者に対して基金の設立のような形で補償措置がとられるようになっています。

第四に、憲法や法律などの中でナチス的なものが極力排除されました。ドイツ憲法は、ナチスの再来を許さないようなさまざまな工夫がこらされています。例えば、ヒトラー政権誕生にいたる過程で、当時のワイマール共和国憲法下の大統領権限の大きさが問題とされたので、戦後はこうした大統領の政治的権限を著しく弱体化させました。またワイマール時代に議会が少数政党の乱立から機能不全に陥り、結果的にナチス党のような極右政党の進出を許したことから、戦後憲法では有権者の5%の得票を得ない少数政党は連邦議会議席を得られないことにしました。また、ナチス党を賛美したり、ナチス式敬礼(「ハイル・ヒトラー!」と右手を挙げる敬礼)をすることは法律によって禁止されました。

第五に、学校教育における反ナチス教育の徹底です。ドイツでは中学校くらいのときにナチス時代のことを集中的に学ぶ機会があり、ナチスの権力掌握の意味や、当時のドイツ国民の考え方、どうしてナチスを支持したか、アウシュヴィッツなど強制収容所の実態などが細かく学習されます。ナチスの被害者となったポーランドとの間では歴史教科書をめぐる対話が進んでいます。

以上の5つの方向以外に、戦後の言論界におけるナチス的ものに対する批判、ドイツ国防軍の行動範囲の限定、歴史的なドイツ国境の放棄と戦後国境の承認などなど、戦後ドイツの内外政はナチスの過去と無関係に扱われるものは少ないのです。こうした戦後ドイツのナチスとの向き合いについて、これを高く評価する見方がある一方、まだまだ不徹底であるとする見方もあります。とくに1989年のベルリンの壁の崩壊、翌年の東西ドイツ統一以後、旧東ドイツ部分で再びナチス的な考え方が目立ってきたという見方もあります。それは経済的に困難な地位に置かれた旧東ドイツの人々が、ドイツにたくさんいる外国人労働者に対して排外的な態度をとりがちであることも関係しています。このように、ドイツではナチスの過去に対して真剣に取り組む実績を持ちつつ、しかし、今もなお、その努力が充分であったかと問い直すことが行われています。日本での戦争責任論、歴史教科書問題などの問題を考える際にも、ドイツの事例がしばしばとりあげられるのはこうした背景があります。

======以下省略==========================


20世紀は大戦争の世紀(6)日本とドイツのB,C級戦犯の裁判と処刑の比較

2012年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦の後で、連合国側は東京裁判とニュルンベルク裁判で主要な戦争責任者を有罪にし、そのうち何人かを死刑にしました。

東京裁判では被告28人のうち東條英機さんら7人が絞首刑、16人が終身刑でした。ニュルンベルク裁判ではボルマンら12名が死刑になりました。

現在の日本人はその程度の理解をしています。

しかし東京裁判とニュルンベルク裁判の終了後に、それとは別に、BC級戦犯の裁判と処刑が続いたのです。

日本のBC級裁判では被告5700人に対して死刑987人、無期刑475人、有期刑2944人という判決が出ました。日本ではこのBC級裁判は短期に終了しました。

そのため、このBC級裁判は拙速を極め、無実の罪を問われた人も多かったのです。

一方、ドイツにおける裁判がニュルンベルク裁判のあと連綿として長期間、続き、処刑されたり、有罪になったドイツ人は非常に多かったのです。

その研究はドイツ現代史の研究者の清水正義氏によって発表されています。

以下に引用しましたのでお読み頂き、日本とヨーロッパにおける戦犯の取り扱いの相違をお考え頂ければよいと思います。私の感想はいずれ記事に書いてみたいと思います。

今回は日本とドイツに於けるBC級戦犯の簡略な比較資料のみをお送りいたします。

====日本のおけるBC級戦犯==========

出典は、「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)です。

BC級戦犯
日本人のBC級戦犯への裁判は、1945年(昭20)10月から '51,4月まで、米、英、
仏、オランダ、オーストラリア、中国、フィリピンの7か国、49の法廷で実施さ
れた。総件数2244件、被告5700人といわれ、裁判の結果、死刑984人、
無期刑475人、有期刑2944人をかぞえた。  《「角川日本史辞典」より》

 BC級戦犯裁判で有罪に問われた韓国・朝鮮人軍属は148人(死刑23人)、
このうち129人は連合国軍捕虜の監視要員だった。彼らは日本軍の最末端に位置
付けられ、上官の命令に従わざるを得ない立場だったが、日本の戦争責任を肩代わ
りさせられる形で個人責任が問われた。    《中日新聞 2009.8.15記事から》
======ドイツにおけるBC級戦犯========

ドイツにおけるB,C級戦犯の裁判と処刑はどうだったのでしょうか?

「現代史研究者清水正義のホームページ」

http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/qanda/BCWarCriminalsTrial.htm

ドイツではA級戦犯、B・C級戦犯という呼称はなく、主要戦争犯罪人と(単なる)戦争犯罪人という言い方をします。そこでここでは、主要戦争犯罪人を裁いたニュルンベルク国際軍事裁判以外はすべて、いわゆる日本で言うB・C級戦犯裁判と考えて回答いたします。

ドイツでの(B・C級)戦犯裁判について日本での研究例はあまり多くありませんが、次の文献はヨーロッパ諸国内での反ナチス裁判について興味深くまとめています。

野村二郎『ナチス裁判』(講談社現代新書)

ドイツ語を読める人には基本的なものを2点あげておきます。

Adarbert Rueckerl, NS-Verbrechen vor Gericht. Versuch einer Vergangenheitsbewaeltigung (Heidelberg,1984).
Albrecht Gaetz, Bilanz der Verfolgung von NS-Straftaten (Koeln, 1986).
さて、ドイツにおける戦犯裁判は米英仏ソの4占領国によるものの他、それ以外のヨーロッパ諸国で行われたものがあります。

まずアメリカによる裁判ですが、ニュルンベルク国際軍事裁判が終了した後、同じ場所でアメリカ占領軍によるニュルンベルク継続裁判が行われます。この裁判は全部で12件ありましたが、そこではSS隊員、国防軍将校、医師、外交官、裁判官、企業家など合計184名が被告になり、うち24名が死刑、20名が終身刑、98名が有期刑、35名が無罪、7名が病気その他で審理除外となっています。アメリカによる裁判はこれ以外にご指摘のダッハウ裁判があります。この裁判ではダッハウをはじめブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなどの強制収容所関係者が裁かれました。このうちダッハウ強制収容所員に対する裁判では被告40名中、36名が死刑判決で、うち32名が執行されています。ダッハウ強制収容所が解放される直前にSS隊員は逃亡を試みていますが、なお所内にとどまっていた所員は米軍により逮捕されました。ダッハウでは捕虜に対する生体実験が行われていましたが、これに関わった軍医も逮捕され死刑判決を受けています。以上のニュルンベルク継続裁判、ダッハウ裁判を含めアメリカ占領地区全体で被告1941名、うち324名死刑、247名終身刑、946名有期刑、367名無罪、57名不起訴となっています。

イギリスの裁判はヴェネツィア裁判、ハンブルク裁判、アウシュヴィッツ裁判、ベルゲンベルゼン裁判などがあり、全体として英軍事法廷では1085名の被告中240名が死刑になっています。その他の量刑については不明です。
フランスの場合はノイエブレム裁判、ナッツヴァイラー裁判などがあり、2107名被告中、104名死刑となっています。この他にフランス国内での戦犯裁判があったようですが、詳らかにしません。その他の量刑については不明です。
ソ連については詳細な数字が明らかになっておらず、ソ連占領地域、ソ連国内でどの程度の戦犯裁判が行われたのかはよく分かりません。一方、1950年代初頭にソ連のジューコフ将軍が東ドイツ政府に対し1万名の有罪者を刑に服させるため移送させると通告し、同時期、3432名の抑留者が東ドイツに犯罪行為調査のため移送されています。東ドイツでは裁判の結果、全員が有罪となり、うち32名に死刑判決が下されています。ただ、私の推測ではソ連による戦犯裁判の人数は以上の程度に収まるものではないと思います。

以上が4占領国による裁判ですが、それとは別にヨーロッパ諸国でドイツ戦犯裁判が行われています。例えばポーランドでは1977年までに5358名が有罪を宣告され、同様にベルギーで75名、デンマークで85名、ルクセンブルクで87名、ノルウェーで81名、オランダで240名が有罪者となっています。また、ご承知のように1961にイスラエルでアイヒマン裁判が行われ、死刑に処せられています。ところで、ナチス犯罪の場合、このような諸外国による戦犯裁判の他に、ドイツ、オーストリア国内でも裁判が行われています。まずドイツでは1992年までの数字でナチス犯罪で有罪になった数は6488名を数え、オーストリアでは1972年までに、1万3607名有罪、うち43名死刑(30名執行)、29名終身刑、他有期刑となっています。

==========================================


多摩川上流の鱒釣り場の風景をお楽しみください

2012年08月22日 | 写真

多摩川沿いに奥多摩街道を登って行くと、JRの御岳駅を通り越した所に「国際鱒釣り場」という名前も面積もスケールの大きい釣り場が広がっています。

毎日多摩川へ養殖した大量の鱒を放って、釣り人にどんどん釣って貰う場所です。入場料もかなりなようですが、大きな鱒が素人にも釣れるので何時もお客がいます。

放流する鱒にはしばらく餌を与えないので釣り糸の先にある餌にすぐ食いつきます。素人でも釣れるのです。

川の上流や下流に逃げて行ってしまう鱒もいるのでしょうが、経営者はあまり頓着していません。

40年位前に幼い娘や息子の水遊び場として一家で何度も行った所なので懐かしい場所です。

5年位前には孫達を連れて行きました。食堂の裏に釣り堀の大きな池が二つあるので、子供が釣るのに最適です。釣ったマスは食堂で塩焼きにしてくれます。しかしその食堂は今はありません。

現在は釣った鱒のはらわたを取る下処理をし、塩をあててもらって家へ持ち帰ります。

そんな事を思い出しながら暑い真昼の川原をあちこち散歩して来ました。

なお、名前の国際鱒釣り場とは戦後、立川や福生に進駐してきたアメリカ兵の娯楽場として開業した経緯があり、当時の名前をそのまま使っているのです。

多摩川の川幅いっぱいに、長さ500m位も勝手に一会社の営利事業に使うことは現在では許可されません。進駐軍のためなら何でも出来た時代の名残なのでしょう。

奥多摩へドライブする折には必ず川原に下りて一休みする場所です。

今日も川原を歩きまわりながら写真を撮ってきました。鱒釣り場の風景をお楽しみください。

102

112

097

107

095


急激に変化する日本人の価値観(1)先祖代々のお墓が消えて行く現象

2012年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人の価値観という言葉をまず考えてみましょう。

どのような人生を送ったら幸せになれるかというのも価値観によって左右されます。

どのような職業につけば幸せになるかというのもその人の価値観によって決まります。

そしてどのような思想、信条、宗教を持てば幸せになるかという問題もその人の価値観によって決まります。

こうして価値観という言葉を広く考えて行くと、それは日本の文化の中心にある人々の「生き方」を決めていると言えます。

ですから「急激に変化する日本人の価値観によって日本人の文化はどのように変化したか?」というのが今日から始める連載記事のメインテーマです。

私が急激な変化を感じ始めたのは1990年頃のバブル経済の崩壊の頃からです。

戦後の復興と経済成長を支えてきた人々の考え方、すなわち価値観が急に変わり始めたのです。経済発展に大きな価値を認めていた日本人の考え方が崩壊し始めたのです。

そしてこの経済重視の思想の崩壊がいろいろな分野に於ける伝統的な考え方の崩壊を誘発したのです。

その結果、日本文化そのものに大きな影響を与えたのです。

その一つが江戸時代に確立したお寺の檀家制度の崩壊です。

都会に住む人も田舎に住む人も、その多くは お寺に先祖代々のお墓があり、ご先祖さまの霊が家族の幸せを守っていたのです。そのように信じていた人々が少なくなかったのです。

勿論、一方で、そういう考えは古すぎるとして先祖代々のお墓に価値を認めない人が多数いたことも事実です。

しかしそうであっても、「先祖代々のお墓」は日本人の深層心理の中に棲み着いていた「キーワード」だったのです。

それが1990年ころから急速に消え始めたのです。

お寺の経済を支える檀家制度が揺らぎ、無縁墓が増えだしたのです。私の祖父は曹洞宗のお寺の住職だった関係で、お寺の生活を多少知っています。それは人々の価値観の変化によっていろいろと変わって行くのです。

それでは人々は死ぬとどのような墓に入るのでしょうか?

お寺にある墓でなく墓地公園に作った夫婦の墓、公営墓地にある合葬の墓、そして樹林葬、海への散骨というふうに急速に変化しているのです。

田舎のお寺にある先祖代々の墓は整理され、消えて行くのです。その跡地には夫婦の墓が新しく出来ます。始めは遺族が来てくれますが、それも代が変わると無縁墓になってしまうのです。

かつて日本文化に密接に関係していた先祖を大切にする家族制度の崩壊が起きているのです。深層心理の中に住み着いている「キーワード」がまた一つ消えて行くのです。

この変化は日本人の仏教の信仰の内容へも変化をもたらします。この問題は深い問題なので今回は、問題を提起するだけにしておきます。

下に東京都営の小平墓地の合葬の墓と樹林葬の墓域の写真を示します。

皆様は先祖代々の墓に価値を認めますでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

014

008


この南洋の海の色、その風景をお楽しみ下さい・・・パラオ諸島

2012年08月21日 | 写真

私事ですが孫が3人います。全て男の子で、上が高校一年生で、下が小学校5年生の双子の子です。一週間ほど一家でパラオ諸島へ行って来ました。

高校一年生の孫へ写真を撮ってくるように頼んでおきました。先程、807枚の写真が入っているメモリーチップを持って来たので、その中から6枚をお送りいたします。

パラオの南洋の海の色、その風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

251

638

726

384

708

366

参考資料:

有史以前

有史以前のパラオについては未解明の状態だが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。

スペインの植民地

16世紀頃より、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきた。パラオも1885年にスペインの植民地下に入った。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したとされる。

ドイツの植民地

1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となった。ドイツはパラオでココナッツタピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[1]。しかし、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラストラクチャーの整備や現地人への教育はほとんど行われなかった。

1914年第一次世界大戦が開始されると、イギリスやアメリカなどと同じ連合国の一国であり、ドイツに対して宣戦を布告した日本海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。

日本の委任統治

日本の委任統治領当時のコロール

第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になった[2]。コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった(軍人を除く昭和18年6月末時点の居住者33,960人の内訳:内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人)。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地人子弟は高等教育の道が事実上閉ざされていた[1][3]。現地人の教科書編纂のため南洋庁の書記として赴任していた中島敦(後に作家となる)は、教育の軽視など、現地住民がおかれた状況を悲観的に分析した手紙を家族に送っている。

日本は1933年国際連盟から脱退したが、「統治委任はパリ講和会議によるもの」と主張して、国際連盟の加盟諸国もこれを認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。

第二次世界大戦太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかった[4]。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、パラオ挺身隊などに軍属として動員されることがあった[3][5]

現在も非常に親日的な上に、アメリカに次いで日本から莫大な援助を受けている[6]

アメリカの信託統治

戦争終結後の1947年に、国際連合の委託を受けアメリカ合衆国はパラオを信託統治下に置いた(太平洋諸島信託統治領)。アメリカはミクロネシア地域には動物園政策を取り教育や福祉健康には援助を行ったが産業開発にはほとんど投資を行わなかった。

アメリカ統治の開始にともない、今度は英語による民主主義教育が住民に対しても行われるようになった。パラオ住民は高等教育も受けることが出来るようになった反面、経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、フィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになった。食料がアメリカによって豊富に供給されたことにより蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり肥満の問題も発生している。また、高等教育を受けた若者は、アメリカの教育の影響を受けて統治国のアメリカでの就職を希望する者が多く、パラオの人口動態は流動的なものとなって把握が難しくなっていた。アメリカによる民主主義教育の成果は、後述パラオ憲法の非核条項をめぐるコンパクトの国民投票においてアメリカ側の軍事的利益に反する結果を度々出したことにも現れている。

独立への動き

1979年7月には、アメリカによる核兵器の持ち込みを禁止した「非核憲法」を住民投票で可決したが、アメリカ政府の意向を受けた信託統治領高等裁判所が無効を宣言。10月、非核条項を緩和した憲法草案で再び住民投票を行ったが今度は否決。しかし1980年7月に、1年前と同じ内容(修正前)の草案での住民投票で可決された。

1981年に、自治政府の「パラオ共和国」を発足させ、憲法を発布。翌1982年に、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留。その見返りとしてアメリカが財政援助をする自由連合盟約(コンパクト)の内容に関して両政府が合意した。だが翌年行われた住民投票でコンパクトは否決され、これ以降、1990年まで都合7回の住民投票が行われたが全て否決された。

独立

1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これを可決。同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラが当選した。

1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。

地理 :場所はフィリピンの東の太平洋にある島々です。

パラオを構成する島は200程度だが、実際に人が住んでいる島は10に満たないとされる。首都マルキョクやパラオ国際空港のあるバベルダオブ島と旧首都のあるコロール島とは橋で結ばれている。

20世紀は大戦争の世紀(5)日本軍は2000万人のアジア人を殺した

2012年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は現在、尖閣諸島や竹島や北方4島のことで隣の国々と争っています。

しかし、このように小さな島々の事で何十年も争う事は本当に日本人の利益になるのでしょうか?

双方共に感情的になって無理に上陸したり、排除したりを繰り返しています。

中国の国内で大工場を経営している日本の会社が沢山あるのです。その事も考慮に入れ感情的な争いは止めるべきと信じています。もっと平和的な話し合いで解決するように努力すべきです。

この小さな島々の領有争いは私に日本がアジアで何をして来たか再考させるきっかけになりました。

大東亜戦争の結果、何が起きたか、私は40年前頃に随分と本を読みました。しかし最近は読まなくなったので忘れていました。

老耄のせいでもあり日本がアジア諸国へ与えた甚大な損害をほとんど忘れていたのです。

このブログでよく引用する「我が家のホームページ」にアジア諸国の損害に関する明快な一覧表があるのです。以下に掲載します。

ご存知無い方があるかも知れませんがインドネシア政府は400万人も殺されたと主張しているのです。資源開発の労務者として駆り出され死んだ人が大部分とも言われています。

また仏領インドシナ」(ベトナム、など)では日本軍の過酷な食料徴発と天候不順が重なって200万人が餓死したと言われています。

中国での1000万人は中国兵の戦死者に加えて食料徴発のための農村襲撃の犠牲者や戦争に巻き込まれた民間人も含めた総計です。

朝鮮の20万人は労働者として駆り出され、日本で死んだ者の数も含まれます。

フィリッピンの111万人はマニラ陥落の為の激しい攻防戦とその後の徹底的な掃討作戦によるものです。

インドの150万人は日本軍の進撃が間接的な原因になった食料不足と天候不順が重なったもので、ベンガル飢饉と称するものです。しかしこの150万人は総合計の1900万人から差し引くべきと私は思います。

しかし以下の表ではそれも含めて日本軍の侵略が原因で死んだアジア人の総合計を1900万人としています。

誤解なさらないで下さい。私は日本が悪かったとか正しいことをしたと主張する気持ちは毛頭ありません。しかし下の表を見て戦争の深い意味での悪を考えて頂きたいのです。

戦後日本はアジア諸国にいろいろな形で賠償を支払ってきました。政治的には償いは終わっているのです。しかし甚大な被害を受けた先方の人々はその事を絶対に忘れないのです。許すとか、許さないという次元の問題ではないのです。

この気持は日本人の遺族の気持と同じです。

その事は悲しいことですが、充分に考慮に入れて国際関係の平和を築いて行くのが大切だと信じています。

私はいつか南十字星にアジアの平和を祈りたいと思っております。

===以下の統計表の出典は、「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)です。===

 アジア太平洋戦争におけるアジア諸地域の戦争被害
                    (死者、経済的・物的損害額、日本が獲得した資源)

 地   域     死亡者(人)  損害額($) 日本が獲得した鉱産資源/食料など

日     本   3,100,000以上 

朝     鮮   約200,000      不詳       鉄鉱石/米/大麻
中     国   10,000,000以上  5,000億     (中国本土)鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、タングステン
                                 /小麦/綿花、大麻 
                                (「満州国」)鉄鉱石、石炭、ボーキサイト
                                 /小麦、大豆、とうもろこし、羊毛/大麻
台     湾     30,000余     不詳       米、砂糖
フ ィ リ ピ ン  約1,110,000    58億5,000万    鉄鉱石、クローム、銅、マンガン/砂糖/マニラ麻、コプラ
ベ ト ナ ム  約2,000,000      不詳       石炭、タングステン/米、とうもろこし/ジュート
タ     イ     不詳        不詳         錫/米
ビ  ル  マ   約150,000      不詳      タングステン、ニッケル、石油、鉛、亜鉛
                                /米、落花生、とうもろこし/ジュート
マレーシア・シンガポール 100,000以上    不詳    錫、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン/ゴム
インドネシア    約4,000,000     数十億      石油、ボーキサイト、ニッケル、石炭、錫
                                /砂糖、とうもろこし/ゴム、キニーネ、コプラ
イ  ン  ド  約1,500,000        不詳
オーストラリア     17,744        不詳


連合軍将兵・
民間人・捕虜    約6万数千 (オーストラリアの死者のうち約8,000と重複)

 合   計      日本を除く死者:1,900万人以上

 人的・物的被害は、原則として政府の公式発表の数字(「アジア太平洋戦争の被害」『世界』1994年2月号所収)。
 日本が獲得した資源は、岡部牧夫「『大東亜共栄圏』その資源・日本軍の加害と被害」(『週刊朝日百科・日本の歴史』第119号、1988.7.31)による。

==============================

 表に掲げた数字は、原則として戦後における各国政府の公式発表、公式文書に記されたものである。

各国の死亡者は、日本軍による抗日ゲリラ「討伐」による犠牲者、連合軍との戦闘に巻き込まれたもの、日本による資源の開発・収奪にともなう強制労働に起因するもの、日本軍の「現地自活」「現地調達」のための食糧徴発(住民の食糧不足)がまねいた病死・餓死が含まれている。
 ベトナムの約二百万人といわれる死者の大部分は、日本軍による食料収奪と飢饉による病死者・餓死者であるとされている。

インドの死亡者は、直接、日本軍によるものとはいえないが、戦争にともなう食料不足(ベンガル飢餓)によるものである。

インドネシアでも、膨大な数の「ロームシャ」の徴用と日本軍の「現地自活」にともなう食料不足のための犠牲者は、四百万人におよぶとされている。「兵補」として戦場にかり出された人々からも犠牲者がでている。
 マレーシア・シンガポールでの犠牲者の多くは、 日本軍による抗日勢力「粛清」によるものである。

英領マレー(現マレーシア)では、中国系の住民に対して日本軍は、中国本土でおこなったのと同じように、ゲリラ討伐を口実に村落ごと殲滅する作戦を各所でおこなった。

シンガポールでの反日・抗日派に対する「大検証」(逮捕・虐殺)も、日本軍がアジアの人々を敵にした隠すことのできない事件の一つである。
 フィリピンにおける犠牲者も、日本軍と米軍との戦闘に巻き込まれた(とりわけ一九四五年一月~三月のマニラ攻防戦で一般市民十万人が死亡したといわれている)だけでなく、 日本軍による「治安粛清」 すなわちゲリラ討伐によって殺害された人々が多数ふくまれている。

=========以下省略=====================


私達が好きな花屋さんが突然倒産しました・・・悲しい事件でした

2012年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

私達が何十年も通っていた大きな花屋さんが五日市街道沿いにありました。それが数年前に突然無くなってしまったのです。倒産してしまったのです。

働き者の大柄な明るい奥さんが花を売り、静かなご主人がいつも花々の手入れをしていました。手伝っていた若い人々も皆明るい優しい人ばかりでした。

みんな、みんないなくなってしまいました。

それは我が家にとっても悲しい大事件でした。

その花屋さんへは、毎年暮れに、シクラメンの鉢を数個買いに行ったものです。パンジーや芝桜の苗、クロッカス、フリージアの球根も買いました。

庭木もいろいろあり、海棠やライラック、源平桃の苗木を買いました。家内の母が好きな牡丹桜の木も買いました。大きな花屋さんで4棟の温室には熱帯の花々がいつも咲いていたので楽しい場所でした。

その花屋さんのあった場所は現在、大きな回転すし屋さんになっています。

その後は、その花屋さんのような所が無いかとあちこち探しています。

最近は武蔵境の東八道路に面したJマート店の広い花売り場へ時々行っています。

広い売り場には鉢植えの花も、切り花も庭木も売っています。

売り場を歩き回りながら時々写真も撮れます。珍しい花もあります。

今日も少しだけ写真を撮って来ました。

家内は気に入ったクリーム色のブーゲンビリアの鉢植えを買ってきました。

下にJマート武蔵境店で撮って来た写真をお送りいたします。

J_011

J_014

J_016

J_001