後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

20世紀は大戦争の世紀(4)海外の114万柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていない

2012年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は豊かになった。経済的に繁栄したと人々は満足しています。

しかし太平洋戦争の為に海外で亡くなった240万人の犠牲者のうちまだ113万5千人の遺骨が日本へ帰って来ていません。

最近は若いボランティアも参加して、遺骨を探す努力をしています。しかしその努力は遅々として進んでいません。

父や夫や息子や家族を戦争で失った遺族にとっては太平洋戦争は終わっていないのです。

113万5千柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていないのです。

最近、あるブログで還らぬ父の遺骨に関する文章を読みました。

その文章をもとにして書き変えた一文を以下にお送りします。

今日は粛々として、慰める言葉もありません。言葉の無力を感じるだけです。

=======「平和とは」====================

20世紀は科学技術が大きく進歩したので大戦争が起きたものと思います。・・・武器が急に進歩して、使ってみたくなります。自分の国が勝つと思いこみます。そして大きな戦争が始まります。

私はその戦争の犠牲者だと思っています。

海軍で戦死した父へ、国から人が来てお線香も上げて貰っていません。

遺骨も還って来ません。 とてもと、とても不満です。

そしていくら靖国神社で追悼式典が開催されていても、ひとかけらの遺骨も無い父の魂は其処には無いのです。

どんなに立派な追悼の辞を読み上げていただいても他所事に思えるのです。

そんな哀しい心を引きずって生きているから、癒しは自然の中の花々や鳥さんたちを眺める事で得られます。その写真を撮りながら自分を慰めています。

平和ってなんでしょう。どうしたら世界中が平和になるのでしょう!

小さな島の奪い合いって醜いですね。

人間って哀しい生き物ですね。
ツバメが沢山の卵を孵して立派に子育てをして旅立っていきました。

世界中の人間一人一人がもっと上手に子育てをして世の中へ送り出し、

争いの無い世界を取り戻して欲しいですね。

===以下の統計表の出典は、「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)です。===

 地域別 戦没者概数・遺骨送還概数・残存遺骨概数
                       (平成23年8月12日現在)

             戦没者概数   遺骨送還概数   残存遺骨概数
 沖     縄    186,500    186,520       -
 中 国 本 土    465,700    438,470     27,230 
 中 国 東 北 部    245,400     39,180      206,220
 (ノモンハンを含む)
 樺 太、千 島 等     24,400     1,720       22,680  
 ロシア(旧ソ連)     54,400     20,660       33,740
 (モンゴル含む)
 硫  黄  島     21,900     9,540        12,360 
 中 部 太 平 洋    247,000     72,670      174,330 
 フ ィ リ ピ ン       518,000      148,520       369,480 
 タ イ、マレーシア等     21,000     20,200      800 
 ミ ャ ン マ ー    137,000      91,390        45,610
 イ  ン  ド     30,000       19,940         10,060 
 北 ボ ル ネ オ     12,000     6,910         5,090 
 インドネシア      31,400      11,030        20,370 
 西 イ リ ア ン     53,000        32,950       20,050
 東部ニューギニア    127,600     50,310     77,290 
 ビスマーク・ソロモン諸島    118,700    56,470       62,230  
 その他の地域*     107,800     58,800      49,000

  (*=韓国、北朝鮮、台湾、ベトナム、
  カンボジア、ラオス他)

           2,400,000      1,265,000        1,135,000

  ※沖縄戦没者概数については、沖縄県資料によると188,100となっており、
   遺骨送還概数には沖縄県民による収骨数が含まれる。

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 戦没者の遺骨帰還について
 先の大戦における戦没者数は310万人であり、このうち海外における戦没者は約240万人であり、これらの海
外戦没者の遺骨は、軍人等が持ち帰ったもの以外は、海外の戦域に残されたままとなっていた。
  サンフランシスコ平和条約の発効した昭和27年以来、国は、海外の戦没者の遺骨帰還を実施している。


 海外の戦没者の遺骨帰還の現状については以下のとおり。  

(平成23年8月12日現在)
   海外戦没者概数                    約240万人
    遺骨帰還概数                     約127万柱
  未帰還遺骨概数                    約113万柱
   うち 海没遺骨                   約30万柱
      相手国の事情(注)により御帰還が困難な遺骨   約23万柱
      御帰還が可能な遺骨(推計)          約61万柱
       (注)国交がない(北朝鮮)、対日感情に配慮する必要がある(中国)など
  (参考)国の遺骨帰還事業による御帰還遺骨数      約33万柱


  《厚生労働省ホームページ 報道発表資料 2011年8月 戦没者慰霊事業のお知らせ から》

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この繊細な羽毛のような花をご存知でしょうか?

2012年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

家の東側の塀に8月中旬になると、ソウッと静かに夜だけ咲く不思議な花があります。

この花の名前をご存知でしょうか?

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家内に名前を尋ねると、毎年咲いているのに気がつかなかった私に吃驚しながら、それを隠すように、言葉だけは丁寧に、「カラスウリの花なのよ」と教えてくれました。「何でも知っっているんだね」とフォローして、一件落着。兎に角、人生は危険ですから。

それにしても暑いですね。熱中症にはくれぐれもご注意下さい。


碧い空、白い雲、白い雲、そして夏の雑木林

2012年08月19日 | 写真

今日は午前中、ミサに出て、午後から車で埼玉県所沢市の田園地帯へ白い雲の写真を撮りに行きました。

碧い空にいろいろな形をした白い雲が流れています。つい先日秋の兆しを思わせる羊雲の写真を撮ったのに、また夏に逆戻りしたような日です。

埼玉県の田園地帯は畑が一面に広がり、写真を撮る時、邪魔になる電柱や電線が見えません。

下に碧い空、白い雲、白い雲、そして夏の雑木林の写真をお送り致します。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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20世紀は大戦争の世紀(3)日本へ投降した捕虜の過酷な運命

2012年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦中に日本軍へ投降したアメリカ軍人の正確な数字は分かりませんが、下の表では25600人という数字もあり、32620人という数字もあります。

その捕虜の41%か38%は死亡してしまい、故国へは帰りれませんでした。

一方、ドイツ軍へ投降した93941人のうち死亡したのは1.1%だけでした。

これを単純に比較して日本人は捕虜にたいして残酷な取り扱いをしたと言う気持ちはありません。捕虜を受け取った戦線の過酷な状況の相違も原因になっている事は容易に想像出来ます。

しかし捕虜達のその後の運命は大きく違っていたのです。

ソ連に侵攻したドイツ軍は2000万人のロシア人を殺しています。ドイツと日本とどちらが残酷だったかという問題には意味がありません。

一方、現在の日本人は、アメリカ軍人の他にも多数のイギリス人・オーストラリア・インド人とオランダ人も捕虜として過酷に取り扱った事をあまり知りません。

ただ、以下の表をご覧になって、静かに戦争の残酷性を深く考えてみたいと思います。

20世紀は戦争の世紀でした。

21世紀こそ地球上から一切の戦争が無くなるようにと祈ります。お祈りします。

そして今日一日平穏に過ごせますように。

===出典:「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)===

日本軍に捕えられた捕虜等

  国籍別の死亡率
           アメリカ人    イギリス人、オーストラリア人、      オランダ人
                           英国系インド人

  捕 虜 合 計    25,600人     130,000人         37,000人  
  捕 虜 死 亡    10,650人      8,100人          8,500人  
  死 亡 率     41.6%       6.2%             23%  

  強制労働者(オランダ領インドシナ、現インドネシア)
  労 務 者     300,000人  
  労務者死亡     230,000人  
  死 亡 率      76.6%  


  第二次大戦中にナチス(ドイツ軍)または日本軍に捕えられたアメリカ人の行方

  米軍人の捕虜  
                   ナチス  %                        日本軍  % 

  米軍人捕虜人数      93,941人  ---               36,260人  ---

  死亡した捕虜        1,121人   1.1%               13,851人   38.2%
  

  抑留されたアメリカ民間人
                ナチス  %                           日本軍  %
  抑留された民間人数     4,746人  ---                13,996人   ---
  死亡した人数         168人 3.5%                  1,536人 11%
  

               出所: AXPOW Association, March 15, 2000


国分寺の礎石は一人で歩き回る・・・時代によって人間の価値観が大きく変わるという考古学的小話

2012年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

下の写真は武蔵野国国分寺の金堂のあった所に並んでいる礎石です。太い柱を受ける大石ですね。

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ある時、単純な私は、「1250年前の人は石を削らないでそのまま礎石にしたのだ」と呟きながら、その石肌に手を置き、1250年前の人々の姿を想像し、独り感慨にふけっていました。

そばで発掘調査をしていた人が何故か私を怪訝そうに見ています。私は挨拶をして、私の感慨を説明しました。

そうしたら発掘中の中年の男が笑いながら言うのです。

「あれは近所の畑から掘り出して、運んで来た大石なので奈良時代の国分寺の礎石でないのです。いやそうかも知れませんが農民が国分寺跡を畑にする時、邪魔な礎石は転がして、撤去してしまったのです」と言います。

「農民は田畑の邪魔になるものは全て取り除いて、動かしてしまうのです。どんな大きな礎石でも独りで歩いて消えて行くようなものです」と教えてくれます。

そう言えば信濃国分寺跡の真ん中には信越本線が通っていて、国分寺の敷地を分断しています。明治時代の鉄道技師が礎石を沢山、撤去してしまったようです。これは鉄道のお陰で大きな礎石が独りで歩き回ったような話です。

いきなり話は飛びますが、1981年に北京へ行き、下の写真の万里の長城を観光に行きました。

招待してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授へ、「それにしても古い長城が完全に残っていたものですね」と言いました。周教授は笑いながら、「いえ、長城の近所の農民がレンガを勝手に持ち出して農家を作ってしまうのです。ここは観光用に復元してありますが、少し奥に行くとレンガの無い土手が延々と続いていますよ」と当然のように笑っているのです。レンガが独り歩きして無くなってしまうのです。そんな事を昨日、国分寺跡を散歩しながら思い出しました。

それにしても人間という生物は何でもやってしまうのですね。発掘調査の邪魔をするのは昔の人間なのですね。

時代によって人間の価値観が大きく変わるという考古学的小話でした。

想えば、明治、大正、昭和、平成と私共の価値観も変わったものですね。

失礼します。

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ロマン溢れる考古学的発掘・・・・742年の石組みの発見! 

2012年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

武蔵野国国分寺は741年に造営が始まりました。そして1333年頃、鎌倉幕府が崩れるときの戦乱で焼失してしまったのです。近所の分倍河原であった合戦の時、焼け落ちました。

その後紆余曲折があり現在の武蔵野国国分寺は奈良時代のものより北へ200m位引っ込んだ崖下にあります。

下の写真の左端が現在の国分寺です。その南200m位のところに下の写真の真ん中のように奈良時代の金堂跡の礎石があります。右端の写真は現在の国分寺の裏山の林の様子です。

昨日は猛暑でしたが、金堂の南面の下で考古学的発掘をしているのに気がつきました。

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考古学的発掘とはノミで材木を丁寧に切り取って行くように、土の層を崩さないように丁寧に削ることです。

普通は四角形の穴を掘って、その壁の面を丁寧に平らにすると、地層の色が浮き上がります。

黒い地層、赤い地層、白っぽい地層などが積み重なっているのが壁の面に鮮明に見えます。そしてその地層の出来た時代が推定出来るのです。もし、特定の地層に土器や矢じりが埋まっていればその時代が判明します。

昨日、昔の国分寺の金堂跡を一人で掘っている中年男に会いました。見事に染め上げた茶髪の男性です。顔から汗が流れ下っています。それが嬉しそうに相好を崩して、地層の深さを測っています。

私が知ったかぶりを発揮して、下の写真の石組みを指さして、「遂に出ましたね!」と言ったのが余程嬉しかったようで、いろいろなことを教えてくれました。

003 そして、先程、彼が奈良時代の742年に人間が作った石組みを発見しましたと満面の笑いでした。

私がいやその下にも別の地層があり、もっと古い石組みが出るかもと言ったら、彼は途端に真面目になり「この石組みより下には何も人工物が無いのです。ですからこの石組みは742年に作られたものです。」と、断言するのです。

そして私を見上げて嬉しそうに笑うのです。

私はこの金堂跡は近所の農民が畑にしていいたことを言います。ですから江戸時代の農民が作ったものかも知れないと言います。すると彼は二コリとして、「ご覧なさい。この地層の重なりが乱れずに水平に重なっているのです。畑にはしていましたが、ここまで深く耕さなかったのです」と言います。成程、彼の説明は理路整然として明快です。茶髪にしているのに知的な美男子です。私はすっかり感心して、「それにしても何の為の石組みですか」と聞いてみました。

彼の説明では、「昔は雨樋が存在していなかったので屋根の雨水を受ける石組みが必要だったのです。この場所が丁度、金堂の南の屋根の端に一致するので雨だれ受けの石組みと考えています」。成程明快です。

「それにしても良かったですね。熱中症にならないようにして下さい」と言って別れました。考古学的発掘に魅了された男がニコニコしながら私を見送っています。

それだけの話です。それにしてもロマン溢れる考古学的発掘だなと考えながら炎熱の原を帰ってきました。下にその石組みの写真を示します。

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考古学的発掘では掘り下げる四角形の穴の4つの辺がそれぞれ正確に東西南北に合致するように掘ります。出土品の存在場所を紙の上の地図に描き込む為の測量も正確に行い記録します。下の穴の方向は手前が南で、右が東になっています。

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20世紀は大戦争の世紀(2)240万人のドイツ兵が抑留、100万人死亡

2012年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

恥ずかしい話ですが、私はソ連が抑留したのは満州の日本兵だけだったと思っていました。日本の新聞や雑誌は日本人のシベリア抑留だけを書き立てたのでそのように思い込んでいたのです。

しかしソ連がドイツへ攻め込んで得たドイツ兵捕虜の取り扱いに疑問が出ます。少し調べたらソ連の捕虜になったドイツ兵は約350万人だったことが分かりました。

ベルリン陥落後、すぐに返された捕虜以外の約240万人はソ連へ連行され過酷な強制労働をさせられたのです。そしてその約40%に当たる100万人が死亡したのです。

日本兵は64万人がシベリアへ抑留されその約10%の6万人ほどが死亡しました。

ソ連によって抑留されたドイツ兵、240万人のうち何人がシベリア送りになったかは分かりません。しかしドイツ兵の取り扱いは日本兵のそれより一段と凄惨だったのです。シベリアでドイツ兵に会った日本兵がそのことを帰国後報じています。

下に第二次世界大戦後にソ連へ連行され、強制労働をさせられた捕虜の数が国別に示してあります。

この表をよくご覧ください。驚くなかれ、ドイツ以外の枢軸国の多くの捕虜がソ連へ連行されたのです。

ハンガリー51万人。  ルーマニア19万人。  オーストリー16万人。

チェコスロバキア7万人。  ポーランド6万人。  イタリア5万人。

フランス2万人余。    ユーゴスラビア2万人余。

などなど合計417万人もの捕虜を連行し、強制労働をさせたのです。

これは戦時捕虜に関する国際法を完全に無視した行為です。ソ連という国がどんなに非道な国家だったかを証明しています。ソ連解体後、ロシアがソ連の後継者になったのです。ロシアはこの417万人の外国捕虜の抑留に対して謝罪し、正当な損害補償を支払うべきではないでしょうか?

ソ連が417万人の捕虜へ何年間も強制労働をさせた事は重大な人道に反する罪です。絶対に許されるべきではありません。

しかし国連はこの問題は取上げません。所詮、戦争というものはそういうものだと思っているのでしょうか?

虚しさを感じます。

今日はソ連へ連行され、ロシアの極寒の荒野の土となってしまった日本人の冥福を祈ります。そして抑留中に亡くなった全ての人の冥福をお祈りします。

===出典:「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)===

ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳
                                  (1941年6月~45年9月)
 ド  イ  ツ 2,389,560   日     本  639,635  

ハ ン ガ リ ー  513,767     ル ー マ ニ ア  187,370  

オーストリア   156,682    チェコスロバキア   69,977

 ポ ー ラ ン ド   60,280    イ タ リ ア   48,957  

フ ラ ン ス    23,136       ユーゴスラビア   21,822  

モ ル ダ ビ ア    14,129     中     国   12,928

 ユ  ダ  ヤ   10,173     朝     鮮   7,785  

オ ラ ン ダ   4,785       モ ン ゴ ル   3,608  

フィンランド    2,377      ベ ル ギ ー   2,010
ルクセンブルグ   1,652    オランダ・ダッチ    457  

ス ペ イ ン    452         ジ プ シ ー    393  

ノ ル ウ ェ ー    101      スウェーデン      72
                                

                    24ヶ国合計 4,172,042人

 〈『軍事歴史雑誌』(1990年9月号)〉
 《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》

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下はシベリア抑留へ送られる日本兵の写真と亡くなった人の荒れた墓地の様子です。

写真の出典はシベリア抑留画像集からです。

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20世紀は大戦争の世紀(1)第一次世界大戦

2012年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

戦争の事を考える時、日本人の犠牲者数や、失った日本の領土のことばかり考えた新聞記事や論調ばかりが多すぎると私はかねがね思っていました。

もっと世界的な視野で20世紀に起きた大戦争の実態を総合的に見て、それに比較して日本の戦没者数や失った領土のことを考えた方が戦争の悲劇をもっと深く、そして客観的に理解することが出来ると信じています。

その観点からみると「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)は卓越した作品です。これを作っていらっしゃる方とメールの交換もしました。きちんとしたお考えと信念を持った中年の男性の方です。

先のこのブログの記事、全国戦没者追悼式典と千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社 では第二次世界大戦の戦没者数の統計をしめしました。全世界で6000万人もの戦没者が出ました。

そこで今回は第一次世界大戦の兵員の死亡者数や負傷者数を以下にしめします。

当時は民間人の戦没者数が正確な調査が無かったようで、その数は不明です。

しかし地上戦の行われた東ヨーロッパ諸国、ロシア、そしてフランス、イタリーでは民間人も戦いに巻き込まれて多数死んだのです。

兵員と民間人の戦没者数の合計は2000万人とも3000万人とも言われています。

第二次大戦の6000万に較べると少ない数ですが、それにしても2000万人とは想像以上の数です。

こんな大戦争の後、僅か20年後に人類は第二次世界戦争を始めたのです。

20世紀は、人類が狂ってしまった世紀のようです。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の各国の犠牲者数を比べながら戦争の悲劇の大きさを世界的な視野でお考え頂きたいと思います。

そしてその大きな悲劇に中で日本が行った役割をお考え下さい。そうすると太平洋戦争で受けた犠牲と失った領土のことが客観的に分かるような気がいたします。

それが分かっても仕方がありません。どうしようも有りません。悲しみが一層深くなるばかりです。

しかし将来、再び日本が戦争に巻き込まれそうになった場合の取るべき決断が分かります。その決断は日本に再び惨禍が起きないような方向でなければなりません。

その方向は中国や韓国と絶対に戦端を開かない事です。小さな領土問題から戦端を開くべきでは無いのです。冷静に対処すべきなのです。

「20世紀は大戦争の世紀」という連載記事においては、いろいろな視点から戦争とそれにまつわる事実を可能な限り世界的な視点で考えて行きたいと思っています。

どうぞ宜しくお願い致します。そして建設的なコメントを頂けるようにお願い申し上げます。

(続く)

===以下の出典は、「我が家のホームページ」です。===========

第一次世界大戦での主な国の犠牲者数

   国  名     兵 員 (単位 人)
           死  亡  負  傷
   アメリカ    126,000   234,000
   イギリス    908,000  2,090,000
   フランス   1,363,000  4,266,000
   ロ シ ア   1,700,000  4,950,000
   イタリア    650,000   947,000
   ド イ ツ   1,774,000  4,216,000
    オーストリア    1,200,000  3,620,000
   日  本      300     907
         (アメリカ陸軍省調べなど)


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第一次世界大戦における動員兵力と人的損害
  国    別   動員兵力   死  者    負 傷 者  捕虜など  人的損害の合計
                                             

 連合国側
  ロ  シ  ア  12,000,000  1,700,000  4,950,000  2,500,000    9,150,000  
  フ ラ ン ス   8,410,000  1,357,800  4,266,000   537,000     6,160,800   
  イ ギ リ ス   8,904,467   908,371  2,090,212   191,652     3,190,235   
  イ タ リ ア  5,615,000   650,000   947,000   600,000     2,197,000  
  アメリカ合衆国   4,355,000   116,516   204,002    4,500     325,018   
  日     本    800,000     300     907      3          1,210   
  ル ー マ ニ ア    750,000   335,706   120,000   80,000      535,706   
  セ ル ビ ア    707,343   45,000   133,148   152,958      331,106   
  ベ ル ギ ー    267,000   13,716   44,686   34,659       93,061   
  ギ リ シ ア    230,000    5,000   21,000    1,000         27,000   
  ポ ル ト ガ ル    100,000    7,222   13,751   12,319         33,291   
  モンテネグロ     50,000    3,000   10,000    7,000         20,000   
   小    計   42,188.810  5,142,631 12,800,706  4,121,090    22,064,427   

 同盟国側
  ド  イ  ツ  11,000,000  1,773,700  4,216,058   1,152,800      7,142,558  
  オーストリア=ハンガリー   7,800,000  1,200,000  3,620,000  2,200,000   7,020,000   
  ト  ル  コ   2,850,000   325,000   400,000   250,000       975,000   
  ブ ル ガ リ ア   1,200,000   87,500   152,390   27,029      266,919   
   小    計   22,850,000  3,386,200  8,388,448  3,629,829    15,404,477   

 合      計  65,038,810  8,528,831 21,189,154  7,750,919 37,468,904   
 
〈アメリカ合衆国陸軍省の報告(1924年2月)による。ただし、アメリカ合衆国分については1957年11月に国防省の修正を受けている。                         《『ブリタニカ国際大百科事典』から》


心やすらぐ昔の風景をお送りいたします・・・尾張徳川家のお鷹の道

2012年08月17日 | 写真

現在の東京都国分寺市の武蔵国分寺近辺は尾張徳川家のお鷹場でした。1747年に指定され明治維新まで存続したお鷹場でした。

そのお鷹場へ通う道がいつの頃からか「お鷹の道」と呼ばれるようになります。

現在の武蔵国分寺から湧水の流れに沿って東の方向へ延びる道が「お鷹の道」です。

現在は遊歩道になっています。昔の「お鷹の道」をそのまま遊歩道にしたのです。

その近辺には古い農家が江戸時代のたたずまいのまま残っています。先程、散歩をしながら写真を撮って来ました。

皆様のお心がやすまりますように、以下にお送りいたします。

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あなたへ四葉のクローバーを差し上げます

2012年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

何年か前に那須高原で四葉のクローバーを栽培している女性のブログを見たことがあります。そのブログを見ると何故か幸運がやって来るような気分がします。楽しいブログです。それ以来、この私のブログも見た方々へ幸せが来るようにと祈りつつ書いています。

今朝はその四葉のクローバーの写真をあなたへお送りいたします。

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(写真の出典は「四葉のクローバー画像集」です。)

実は昨日、四葉のクローバーを探しに武蔵野公園へ行ったのです。公園のあちこちを見まわしたが、クローバーなど何処にも見えません。そう言えば昔は野原にクロ-バーがよく生えていたものですが、最近はさっぱり見かけなくなりました。昔はクローバーの花を茎ごと採って、それを編んで白い花輪を作ったことなど思い出しました。

その白い花も見えなくなりました。野原の草にも流行があるのでしょうか?

それにしても昨日は猛暑でした。あまり暑いので早々に帰ってきました。夏真っ盛りの公園の写真をお送りいたします。

今日は皆様へ四葉のクローバーを贈ったつもりで、あなたに幸せが来るようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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連日の猛暑ですが空には秋の気配が来ています

2012年08月16日 | 写真

連日の猛暑ですが空には秋の気配が来ています。写真機を持って、暑い武蔵野公園で空の写真を一心に撮ってきました。秋の気配の白い雲が高い空に流れていました。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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鹿島田 真希著「冥土めぐり」・・・この世の勝ち組は読んではいけません

2012年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

今期の芥川賞の受賞作は鹿島田 真希さんの「冥土めぐり」でした。

文章が分かり易く、その上、ストーリーの展開が面白く一挙に読んでしまいます。面白くて途中で止められない小説です。宗教的な暗示を与える山場があって急に終わる娯楽小説です。

しかしこの世の勝ち組は読んではいけません。その理由はこの記事の最後に書きます。

奈津子が夫の太一と出た一泊の旅の間にいろいろ思い出したことを書いた小説です。

旅行先は熱海か伊東を連想させるような所で、泊ったホテルは昔祖父が金持ちだったころ祖父母、両親、弟と一緒にとまったホテルです。それは華やかな思い出でした。その頃は高級ホテルで、タキシード姿の祖父がドレスの祖母とダンスをした高級ホテルでした。

それが現在はうらぶれた区の保養所になってしまっているのです。

元スチュワーデスだった母親は父と夫の死後すっかり貧乏になります。過去の華やかな思い出だけを振り回す嫌な女になってしまいます。そして弟もその母親からお金をせびって遊び暮らすどうしようもない若者です。

太一と結婚する前は、この母と弟と一緒に暮らしていたのです。毎日が嫌で嫌でたまりません。しかし家出する気持ちも無く、おぞましい生活をダラダラと続けていたのです。

その結婚前の生活を「あんな生活」と表現して忌み嫌っているのです。

読者がどんな生活だったか興味を持つように巧みに読者の心を掻き立てます。

そして推理小説の謎解きのように少しずつ明らかにして行きます。この辺のストーリーの展開は手に汗を握りながら読ませるものです。見事な運び方になっています。

太一との旅の間、結婚前の「おぞましい生活」を次々に思い出しながら旅を続けるのです。過去の暗い思い出が冥土の悲しみを巡る旅に感じられるので「冥土めぐり」という題目になっているようです。

夫の太一は結婚後、急に脳障害者になり体が不自由になります。自分のパートの収入と障害者の夫の厚生年金で生活をしています。何の喜びも興奮も無い平凡な生活です。

しかしその障害者の夫は他人の悪意や嘲笑を感じない全くの善人なのです。いつもニコニコしていて、おおらかです。夫が外出先で困っていると、誰でもこの障害者を助けて、家まで送って来てくれるのです。ある時はパトカーで送られて来たこともあります。

そんな夫を奈津子は特に好きでもなく、尊敬もしていません。

ところが旅の最後に2人で波打ち際で休んでいる場面があります。その場面がこの小説の山場です。寝てしまっている夫に波が寄せてきます。体が濡れます。とっさに奈津子も濡れるのも構わず隣に座りこみます。2人は黙って一緒に波に濡れます。それは一瞬の出来事でしたが、その一瞬に奈津子は衝撃を受けたように「素晴らしい夫だ!」と感じるのです。体で感じるのです。この場面できっと多くの人は涙を流します。自分もそうでしたから。

ところがその先があるのです。奈津子はこの素晴らしい夫を一時的な借りものだと思うのです。こんな素晴らしい夫でも借りものである以上何時かは返さなければなりません。

鹿島田 真希さんは借りものの意味を説明していません。読者が勝手に考える自由を与えているのです。私は奈津子へ素晴らしい夫を貸してくれたのは神様だろうと想像しています。神のものは何時かは神へ返さなければなりません。それは悲しい別れです。奈津子はその悲しみを受け入れる覚悟をするのです。けなげな可愛い女ではありませんか。

そしてそこでこの小説は終わっています。

さてそれではこの世の勝ち組はこの小説を読んではいけないのでしょうか?

その前に「勝ち組」の定義をしておきます。それは中央省庁の役人、国会議員、大会社の部課長以上の人々、傑出した芸術家、そしてテレビに出ているタレント達のことです。

この小説に出て来る母親、弟、奈津子、太一の全てが努力心を一切持っていない見下げた人々なのです。努力して収入を増やそうとか出世しようという発想とはまったく無縁な怠け者なのです。この世の勝ち組の人が最も軽蔑して唾棄したくなるような人々です。読んでいるとその怠け心にイライラします。ようするに「勝ち組」の人が読むと寒気がし、しまいには精神が異常になりそうです。勝ち組だけでなく戦前、戦後の「立身出世第一主義」の教育を受けた老人も読まない方が健康のために良いのです。

最後に一番重要な感想を書きます。嫌な事ばかり書き連ねていますが、この小説は親子関係や兄弟姉妹関係の確執や対立、そして根源的な難しさという人類普遍な問題を描き切っていると思いました。人生には何の意味もありませんが、とても危険なものだという深い暗示を与えているのです。深い宗教性をに裏打ちされているのいです。

ちなみに鹿島田 真希さんはロシア正教(本当は日本正教)の信者だそうです。お茶の水のニコライ堂の信者なのです。私もその3時間も続く礼拝に出席したことがあるので、何となく彼女の言いたいことが想像出来るような気分がします。

以上、間違ったところがあったら私の個人的感想文としてお許し下さい。皆様のコメントを頂ければ嬉しく存じます。(終り)


やっぱり書き残したい靖国神社の果たしたもう一つの重要な役割

2012年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

靖国神社のことはブログに書かないほうが良いと言います。

書くと右翼や軍国主義者と誤解されがちです。また過去に忌まわしい戦争に協力したと書けば心穏やかでない人々が多いからです。左翼系の社会学者は靖国神社を非難して、その存在を許しません。

しかし私のこのブログは人々へ慰めを与え、すこしでも心安らかに毎日を過ごして貰いたいと祈りながら書いています。ですから以下に書く事で皆の心が静まり、靖国神社問題を別な角度から考えて頂きたいと祈りながら書いています。

靖国神社が戦後重大な役割を果たしたと思います。それは幸いにも命ながらえて地獄の戦場から帰還した軍人や兵士の心のケアをする役割を果たしたのです。意図したことではなかったのですが、その役割を担ったのです。

復員軍人の多くは、死んでしまった戦友の遺骨や遺品を持たず帰って来た人が多かったのです。作戦の失敗で多くの部下を失った人も帰ってきたのです。殺すか殺されるの戦場で残虐行為をした人もいました。自分の身代りになって、戦友がBC級戦犯として処刑された人もいたのです。死んでも捕虜になるなという戦陣訓に反して捕虜になって帰ってきた軍人もいました。

復員してきた軍人や兵士の多くは、平和な時代には想像もつかない心の病を背負っていたのです。言い方は悪いのですが復員軍人の多くは人格が部分的に破壊されていたのです。

そういう軍人たちは亡くなった戦友の家々を訪ね、その写真や遺品を集めたのです。そしてそれを靖国神社の就遊館へ持って行って保管し、展示するように頼んだのです。

それらを受けとった神主姿の就遊館の人々は静かに、「御苦労さまでした。神様の写真として遺品と一緒に展示させて頂きます」と言ったに違いありません。戦後、戦死した軍人や兵士の遺品と写真を受け取って、大切に保管してくれるところは就遊館だけだったのです。

心に傷を負った復員者を癒してくれたのは就遊館の人々だけだったのです。

当時はカウンセラーという人は存在していませんでした。就遊館の人々はカウンセリングはしません。遺品や写真を持って来た復員軍人の話を静かに聞くだけです。しかし聞くことがカウンセリングになったのです。

これが私が言いたい靖国神社の重要な役割なのです。戦後、厚生省の役人はそれをしませんでした。戦死者の情報は集めましたが遺品は受け取らないのです。

靖国神社は軍人の心の傷を治す努力をした訳ではありません。しかしその役割を果たしたのです。靖国神社の悪口を言う人々にこのことを静かに考えて頂きたいと思います。

この事は私をヨットに何度も乗せてくれた田村さんから聞いたことから理解出来たのです。彼は予科練特攻隊戦死者の写真や関係資料を集め、その展示館、「雄翔館」を茨城県の霞ヶ浦に作った人でした。

同期の予科練性が特攻で死んで行き、田村さんだけが残ったのです。その心の傷は予科練の跡地に、「雄翔館」を作ることで癒されたのです。

(田村さんのことは、人間が好きだから旅をする(2)悲しそうな特攻隊員の顔を忘れない 2008年10月24日掲載記事で説明しています。)

現在、靖国神社には下の写真のような展示があります。その写真をご覧頂きたいと思いお送りするしだいです。

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今日は靖国神社が戦後に果たした重要なもう一つの役割を書きました。

しかし私は政治と宗教の分離の原則をもっともっと徹底して貰いたいと思っています。それと祀られることを希望しない人は祀らないことも実行して貰いたいと思います。しかし問題は複雑で深いので。いたずらに声高かに論争すべき問題ではないのです。

昨日は終戦記念日です。今日は静かに戦争にまつわるいろいろな事を考えてみたいと思います。(終り) 


全国戦没者追悼式典と千鳥ヶ淵戦没者墓苑と靖国神社

2012年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦では全世界で5000万人以上の戦没者が出た人類の歴史上最大の悲劇でした。日本の戦没者は310万人以上と言われています(末尾の参考資料をご覧下さい)。

それはそれとして、下の写真は今日、8月15日、日本政府主催の全国戦没者追悼式典です。

写真は天皇陛下が追悼の辞を述べられている場面です。美智子様もご一緒でした。

写真の出典は読売新聞インターネット版です。

宗教宗派に関係ない追悼式です。追悼の対象は第二次世界大戦で亡くなった全ての日本人で、その戦没者は315万人と言われています。

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一方、下の写真は千鳥ヶ淵戦没者墓苑での追悼式典の様子です。この墓苑が日本政府が保守管理しする国営の墓苑です。先の第二次世界大戦で海外で戦没され、その身元が分からない355000柱の遺骨が眠っています。

今朝は野田総理が追悼し、献花しました。それから武道館での全国戦没者追悼式典へ参加し、冒頭に追悼の辞を読みました。

この千鳥ヶ淵墓苑は宗教に関係無いので、佛教各宗派、キリスト教各宗派、そして神道各宗派が追悼式を行っています。カトリックの私はここのカトリック教団主催の追悼式に参加したことがあります。

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上の写真の出典は以下です:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E9%B3%A5%E3%82%B1%E6%B7%B5%E6%88%A6%E6%B2%A1%E8%80%85%E5%A2%93%E8%8B%91

さて靖国神社では東京のお盆に合わせて毎年7月の中旬に「みたま祭り」を行います。全国から送られた献灯の中に電燈をともし、境内に飾り、全ての戦死者の魂えお呼び寄せます。

そして全国の郷土芸能を演じて、戦没者の魂を慰めるのです。

靖国神社に祀られているのは主に軍人、軍属で、民間人は非常に少数です。しかし、アメリカ空軍の機銃掃射にあって亡くなった小学生や、アメリカ空軍の爆撃で学徒動員として働いていた工場で亡くなった学生なども含まれています。

下に今年の「みたま祭り」の献灯の列の写真をしめします。みたま祭りの主催団体は宗教法人靖国神社です。日本政府ではありません。

出典は、http://homepage3.nifty.com/kankyo-1997/2008-07-15-mitama-matsuri.htm です。

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全国的な規模での追悼式典は以上の3つです。

それぞれ性格が違うことをご理解頂きたいと存じます。

ご参考までに今日の式典に関係することを纏めてみました。(終り)

=======参考===================

第二次世界大戦での主な国の犠牲者数http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM より。

アメリカ40万人、イギリス51万人、フランス35万人、

ポーランド600万人、ソ連2000万人、中国1000万人、

ドイツ550万人、イタリア78万人。この他に500万人の

ユダヤ人などが殺されたのです。

その内訳は以下の通りです。
    国   名      兵  員  の     一般市民の
             死  亡   行方不明  死   亡
   ア メ リ カ     407,828      ―      ―
   イ ギ リ ス     353,652     90,844    60,595
   フ ラ ン ス     166,195      ―    174,620
   ポーランド              (6,000,000)     
   ソ    連            (20,000,000)     
   中    国            (10,000,000)     
   ド  イ  ツ     2,100,000   2,900,000    500,000
   イ タ リ ア     389,000    214,647    179,803

   日    本   約2,300,000           約800,000 (単位 人)


      日本の兵員のうち、朝鮮・台湾の兵員犠牲者、約5万人を含む。
                               (ワールドアルマナック等)

======================================


今日はマリア様の被昇天の祝日です・・・そして終戦記念日です

2012年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今日はマリア様の被昇天の祝日です。そして日本が再び平和になった終戦記念日です。

朝4時に起きて、東京大司教区、カトリック小金井教会の6時からの早朝のミサへ行って来ました。

マリア様の被昇天を祝いました。

日本の終戦記念日の意味を深く考え、戦争犠牲者の冥福を祈って来ました。

(まったく余談ながら家内の洗礼名がマリアなので家内の為にも祈ってきました。)

今日は皆様のご健康と平和を、被昇天の祝日のミサのなかでお祈りして参りました。後藤和弘(藤山杜人)

下に今日のカトリック小金井教会でのミサの写真を示します。司式は主任主任司祭のディン神父さまでした。教会の隣にある聖ヨハネ修道女会のシスターたちもたくさん出席していました。早朝ミサは荘厳で良いものです。

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参考資料として祝日の意味とミサの動画をご紹介いたします。

下のURLをクリックすると四国の高松教区、桜町教会での昨年のミサ風景の動画が見ることが出来ます。

=== http://www.youtube.com/watch?v=guF5_zw3Z2A より====

8月15日は聖母マリアさまが天にあげられたことを記念する日で「聖母被昇天の祝日」といいます。世界中のカトリック教会ではこの日にミサを捧げます。高松教区の司教座聖<wbr></wbr>?堂であるカトリック桜町教会でもミサが捧げられました。桜町教会は1955年12月に設立され、1957年3月に現在の聖堂が完成しました。この聖堂は完成当初から主要な<wbr></wbr>?公式典礼が行われる聖堂、すなわち司教座聖堂(カテドラル)として四国のカトリック教会の中心的な聖堂となっています。

======「マリア様の心」という美しい歌=============

その他にも「マリア様の被昇天」を検索すると、いろいろな参考資料が出て来ます。

ついでに「マリア様の心」という美しい歌と花々の風景を写した楽しい動画のURLをお送りします。http://www.youtube.com/watch?v=0oztdvDsvg8&feature=relatedです。

どうぞお楽しみ下さい。

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上の写真の出典は、http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/maria.htmです。このブログにはザビエルの事が書いてあり、興味深い内容です。(終り)