1945(昭和20)年3月10日の未明、下町一帯を火の海に包んだ東京大空襲。中でも、台東区や江東区、墨田区の被害が最も激しいものでしたが、江戸川区でも死者800名、焼失家屋1万1千戸と大きな被害を受けました。
具体的には、荒川放水路(現在の荒川)と旧中川に囲まれた江東区と接する地域(小松川一帯)が、その被災地域で、昭和22年の航空写真でも、全くの焼け野原となっているのが分かります。
そこに旧江戸川区役所の庁舎がありました。すっかり焼け野原のなかで焼け残った二階建、特殊コンクリートブロック建物。これが、旧江戸川区の文書庫でした。その全景が、この写真です。
後世に、戦争の惨禍を語り継ぐため、周りを整地し、こぢんまりとしていることが、かえって戦争の被害の大きさを無言で語っているかのようです。
内部は見ることは出来ませんが、掲示された写真からその惨状がはっきりと残っています。外壁は痛み方が激しいためか、補強がなされていて、痛々しい感じです。
この文書庫正面に「世代を結ぶ平和像」が立っています。
この地域も、再開発によって道路も建物も大きく新しくなっていく、という時代の流れにあって、戦火の中、区の重要書類を川に沈めて守った元助役をはじめ、多くの区民が戦争の悲惨さを伝えるために、と「文書庫」の保存と「平和像」の建立を求めて立ち上がったそうです。
江戸川区もこれにこたえて、1989年(平成元)年に「文書庫」の保存が実現しました。さらに、1991(平成3年)3月10日には、「世代を結ぶ平和像」が建立されました。
これに先立つ、1980(昭和55)年、区内在住の被爆者や区内被爆者組織(親江会)の人たちの「年々高齢化し、広島・長崎での追悼が困難になる。なんとか区内で追悼できるようにならないだろうか」という切実な声のもと、宗教、教育、法曹、労働組合などの各界の人たちが参加して、「江戸川に原爆犠牲者追悼碑を建立する会」が結成されました。
その運動の結果、翌1981(昭和56)年には、建立場所として区立滝野公園が提供され、「追悼碑」が建立されました。碑は、丸木位里・俊夫妻による絵が彫られています。
こうした取り組みには、江戸川区・江戸川区民の平和への取り組みの熱意が感じられました。
文書庫は、「小松川さくらホール」の脇の小さな公園の中、木々に囲まれた中にあります。最寄りの交通機関は、都営新宿線「東大島駅」。
ちなみに「さくらホール」の北側の通りは、かつて路面電車の城東電車(後に、都電)が走っていた通りで、錦糸町(亀戸)と小松川を結んでいました。