「敗」戦後体制のくびきから解放し、新たな日本を(それは戦前とも通じる)構築しようとアベさんを先頭に政治、経済に蠢きが、一定の国民的評価を得ながら激しくなっています。
曰く「日本国憲法、とりわけ憲法第9条」「戦後民主主義」「公教育」「靖国」「領土」問題・・・、「日本を取り戻す」をスローガンに、衆参両選挙に大勝利をした勢いをもって着々と進んでいます。
戦後(民主主義)体制を批判、覆していく。特にソ連崩壊以降、共産主義・社会主義(運動としての)が大きく挫折していく中で、勢いづく「右翼・保守」派。「戦後」論争(歩むべき方向を見失い、なすすべもなくなったかのような「社会主義・左翼」信奉者への追撃)のさきがけとなった評論が、加藤典洋氏の『敗戦後論』でした。そこには、筆者が言うように大きな誤解もあったのですが、一定の役割を果たしたことも事実です。
たとえば、徹底した「左翼」批判、「護憲派」批判(こちらの力点が強いように受け止められていた)。
しかし、あくまでも筆者は、冷静です。まさに「理念と現実の落差」を追究していきます。(「憲法9条」「靖国参拝」「国家観」・・・)
全共闘世代として「ノンセクトラジカル」の立場から運動に関わりつつ、そのギャップに自らの主体性においておののき生きてきた(生活してきた)自らの過去をどのように総括し、そして外国(言語の異なる、異文化)での生活をなど通じて、今、自らが存在しているか、そうした行きつ戻りつしつつする「思索」が彼の考え方、とらえ方の根底にあるということを受け取ることができます。
振り返って、ほぼ同世代の、「古来稀なり」の世代になりつつある我々にとって、アベにせよそのほかの50代、60代前半の、まさに「戦争を知らない」「戦争責任のとりようもない」「70年前の出来事には関係ない」世代が多くなって(社会を担う、リードする)きて、その彼らに、今、何を語りべきか(語り残すか)を真剣に考えなければならない時を迎えていることをひしひしと感じさせられます。
特に、尖閣、竹島巡る領土問題が一歩間違えば戦争勃発にもつながる危機感。戦争への関わりを筆者は「湾岸戦争」を契機に考えるようになったとか。政治情勢、国際情勢を眺めたときに、あっという間に事態が急変して「戦前」になりかねない今日、この評論が結果としてどう機能していくか(影響力を持つか)、まさに現代的な評論集です。
【問い3】「日本に戦前に似た形でのナショナリズムの再興はあり得ると考えますか? また日本を戦争に引き込む要因があるとして、それはどのようなものでしょうか? 極めて深刻な経済危機、強烈な反米主義の勃興、アジアでの国際関係の危機の勃発などが考えられますが」
【答え】まず日本の社会は戦前とは全く異なったものとなっている。戦前型の天皇主義も、保守主義も右翼思想もその基盤を失っている、外的にも内在的にもそういえる、というのがわたしの観測です。(中略)結論だけをいいますと、戦前型のナショナリズムの復興はありえません。ただ歴史は二度繰り返される。一度目は悲劇、二度目は喜劇として。それがキッチュな喜劇として反復される可能性は、以下の条件次第では、残されているでしょう。(中略)「経済危機」がその場合ありうる唯一の要因です。戦後社会の最大の構成因は、経済的な達成です。経済的な安定がある限り、日本社会は基本的に安定しているでしょう。逆から言えば、これがなくなったら、全てが変わってくる可能性があります。
(P11)フランス人学生の問いかけと筆者の答えの一部
2010年発刊。
注:個人的には、痛烈な「(映画)日本戦後文化論」として、「さようなら、ゴジラたち」(「たち」に筆者の深い意味が込められ、さらに、「ゴジラが夜、靖国神社を破壊する」というシチュエーションを提示する)と、戦後日本の「かわいい」文化の意味するものという「グッバイ・ゴジラ ハロー・キティ」を興味深く読みました。
曰く「日本国憲法、とりわけ憲法第9条」「戦後民主主義」「公教育」「靖国」「領土」問題・・・、「日本を取り戻す」をスローガンに、衆参両選挙に大勝利をした勢いをもって着々と進んでいます。
戦後(民主主義)体制を批判、覆していく。特にソ連崩壊以降、共産主義・社会主義(運動としての)が大きく挫折していく中で、勢いづく「右翼・保守」派。「戦後」論争(歩むべき方向を見失い、なすすべもなくなったかのような「社会主義・左翼」信奉者への追撃)のさきがけとなった評論が、加藤典洋氏の『敗戦後論』でした。そこには、筆者が言うように大きな誤解もあったのですが、一定の役割を果たしたことも事実です。
たとえば、徹底した「左翼」批判、「護憲派」批判(こちらの力点が強いように受け止められていた)。
しかし、あくまでも筆者は、冷静です。まさに「理念と現実の落差」を追究していきます。(「憲法9条」「靖国参拝」「国家観」・・・)
全共闘世代として「ノンセクトラジカル」の立場から運動に関わりつつ、そのギャップに自らの主体性においておののき生きてきた(生活してきた)自らの過去をどのように総括し、そして外国(言語の異なる、異文化)での生活をなど通じて、今、自らが存在しているか、そうした行きつ戻りつしつつする「思索」が彼の考え方、とらえ方の根底にあるということを受け取ることができます。
振り返って、ほぼ同世代の、「古来稀なり」の世代になりつつある我々にとって、アベにせよそのほかの50代、60代前半の、まさに「戦争を知らない」「戦争責任のとりようもない」「70年前の出来事には関係ない」世代が多くなって(社会を担う、リードする)きて、その彼らに、今、何を語りべきか(語り残すか)を真剣に考えなければならない時を迎えていることをひしひしと感じさせられます。
特に、尖閣、竹島巡る領土問題が一歩間違えば戦争勃発にもつながる危機感。戦争への関わりを筆者は「湾岸戦争」を契機に考えるようになったとか。政治情勢、国際情勢を眺めたときに、あっという間に事態が急変して「戦前」になりかねない今日、この評論が結果としてどう機能していくか(影響力を持つか)、まさに現代的な評論集です。
【問い3】「日本に戦前に似た形でのナショナリズムの再興はあり得ると考えますか? また日本を戦争に引き込む要因があるとして、それはどのようなものでしょうか? 極めて深刻な経済危機、強烈な反米主義の勃興、アジアでの国際関係の危機の勃発などが考えられますが」
【答え】まず日本の社会は戦前とは全く異なったものとなっている。戦前型の天皇主義も、保守主義も右翼思想もその基盤を失っている、外的にも内在的にもそういえる、というのがわたしの観測です。(中略)結論だけをいいますと、戦前型のナショナリズムの復興はありえません。ただ歴史は二度繰り返される。一度目は悲劇、二度目は喜劇として。それがキッチュな喜劇として反復される可能性は、以下の条件次第では、残されているでしょう。(中略)「経済危機」がその場合ありうる唯一の要因です。戦後社会の最大の構成因は、経済的な達成です。経済的な安定がある限り、日本社会は基本的に安定しているでしょう。逆から言えば、これがなくなったら、全てが変わってくる可能性があります。
(P11)フランス人学生の問いかけと筆者の答えの一部
2010年発刊。
注:個人的には、痛烈な「(映画)日本戦後文化論」として、「さようなら、ゴジラたち」(「たち」に筆者の深い意味が込められ、さらに、「ゴジラが夜、靖国神社を破壊する」というシチュエーションを提示する)と、戦後日本の「かわいい」文化の意味するものという「グッバイ・ゴジラ ハロー・キティ」を興味深く読みました。