品川~川崎~神奈川と続く旧東海道の宿場。今回は「川崎宿」。
徳川幕府が、東海道に駅制を定め、諸駅を設置した慶長6年(1601)のこと。諸駅より20年ほど遅れて川崎宿は元和9年(1623)に設置されました。それまでは品川宿の次は神奈川宿。往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、その中間に位置する川崎に新しい宿場・駅を設置しました、とされています。
川崎市では、川崎宿成立400年となる2023年に向けてその歴史と文化を継承する企画が進んでいるようです。
「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板。
関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。 川崎市
200年もの間、渡し船が行き交う場所だったわけです。
対岸(大田区側)を望む。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。六郷川(多摩川)をはさんで旧東海道。「六郷渡船場」とある。
地元の鈴木左内が明治7年(1874)に木造有料の「左内橋」を架けたが、明治11年(1878)に流されてしまったため、この図には描かれていない。左の直線は、鉄道。東京側だが「梨畑」とあるのに注目。左下に連なるのが「川崎宿」の町並み。
「明治天皇渡御記念碑」。明治元年(1868)十月十二日、天皇は東下の道中、二十三艘でつくられた舟橋を渡って江戸(東京)に入った。
そのようすを描いたレリーフ。
(「制作 web-photographer 上野 隆史 Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)
川崎は「長十郎梨」の原産地でもあった。「長十郎梨のふるさと」。
すでに終了したイベントですが。
より
掲載号:2014年3月14日号
市民有志実行委
「長十郎梨育てませんか」
苗木作りの参加者募集
「区の木」に制定されている長十郎梨を自宅で育ててもらおうと、市民有志で組織された実行委員会が苗木作りの講習会を開催する。賛同者を広げ、区内に梨畑が広がっていたかつての景色を取り戻せればと夢見る。
大師河原発祥の長十郎梨が盛んに栽培されていたのは明治・大正時代。当時の区内は梨畑が広がり、俳人・正岡子規は『多摩川を 汽車で通るや 梨の花』と詠んだ。そんな光景に近づけたいと、長十郎まつり実行委員会(石渡孝明委員長)が企画した。
実行委員会は前身にあたる市民有志グループが05年から行っている長十郎梨の植樹会や収穫祭、小学校の体験教室等を引継ぎ、昨年9月、若宮八幡宮で長十郎梨の奉納祭を実施。苗木作りを通じ、長十郎梨をより身近に感じてもらおうという狙いもある。
メンバーの一人である阿部英夫さんは「接ぎ木を使って苗木を作る機会はなかなかないし、面白い。説明を聞きながら作れば、そんなに難しくないですよ」と話す。作った苗木は、うまく育てばおよそ4、5年で数個の実をつけるという。阿部さんは「ぜひ庭に植え替えて大きく育ててほしい」と話すが、ポットに入った状態で持って帰ることができるので、庭などの植え替える土壌がなくても、鉢で育てることが可能だ。
苗木作りの講習会は3月18日 、砂子の東海道かわさき宿交流館4階で開催。神奈川県農業技術センター職員から接ぎ木の仕方を学び、接ぎ木を台木に括り付けて苗木を作る。
当日は、俳優で同実行委員メンバーの中本賢さんも来場し、長十郎梨の歴史などを講演する。午後1時30分から3時30分まで。定員は先着20人。費用は材料代として1500円。
申し込みは電話かFAXで、同実行委員長の石渡さん(【電話】044・288・5885、【FAX】044・288・5861)へ。
梨ならぬ大きな実をたくさんつけた柚の木が沿道にありました。
これまで、「川崎」にはあまりなじみがありませんでした。横浜への通過地点・駅くらい。その後、何度か川崎駅東側にある「体育館」「教育文化会館」等へ出向く機会がありました(「競馬場」や「競輪場」には縁がありませんが)。それも、駅から向かい、そして帰るだけ、という感じ。今回、初めて街を東北から西南へ歩いたということになります。
川崎は、戦争末期、米軍機の空襲でほとんどが焼け野原になってしまった地域。
そんな歴史を持つ街。
京急大師線。
「大師道」分岐。「第一京浜」(旧東海道に一部が重なっている)をくぐる手前。「万年横丁 大師道」。「万年」は有名なお店「万年屋」に由来する。
「川崎大師」への道。
国道をくぐった所にある案内板。「六郷の渡しと旅籠街」。そこに、川崎宿の概要が記されている。
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を下りて川崎宿に入ると、街道筋はに賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤家、小土呂じゃ小宮・・・」。なかでも万年家とその奈良茶飯は有名だった。
川崎宿の家並
旅籠六十二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、 油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など、合計三百六十八軒。 -文久三年(1863)の宿図から-
※「奈良茶飯」
少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。
元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。
江戸時代初期の『料理物語』には、茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。
日本各地に番茶などで煮出した茶汁で炊いた茶飯や茶粥が伝えられている。
日本の外食文化は、江戸時代前期(明暦の大火以降)に江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まったと言われ、現在の定食の原形と言えるもので、奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された。これにより、奈良茶飯は、関西よりもむしろ江戸の食として広まっていった。
川崎宿においては、文化文政時代に、万年屋が奈良茶飯で有名であったと伝えられ、また亀屋という店でも茶飯の提供が行われていたとされる。
十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に万年屋および奈良茶飯が登場したことで一層有名となり、万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したという。
振り返って「第一京浜」ガードを望む。
おひるどきの旧東海道を南に向かって進む。
上には、「川崎宿」。
道には「旧東海道」。電線もなく、街灯も宿場町らしい雰囲気のもので統一され、歩き心地のいい道筋。同好の士のような方々も、ちらほら。
田中本陣跡。
説明板。
「田中本陣」模型。
古文書や絵図から宿場の公的施設のあった所が明確になっているようで、道筋の所々に案内板が設置されている。ここは、「助郷会所」のあったところ。
陽春に誘われての散歩道。
来年は、戦災そして敗戦から70年を迎えようとしています。賑やかな町並みの復活と未来。そこで、「川崎大空襲」のおさらいをしておいて、この先の「川崎宿探訪」を続けます。
《付》
川崎市における戦災の状況(神奈川県)
川崎市は、昭和17(1942)年4月18日の米軍による初めての本土空襲でも、攻撃目標になった。その後、昭和19(1944)年以降空襲が本格化するとともに、川崎市に何度も米軍機が飛来し、その度に被害を受けた。昭和20(1945)年4月15日に200機余のB29 による大規模な爆撃を受け、市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害を受けた。
戦前から川崎市では重化学工業を主とする産業が発展しており、軍需生産でも重要な役割を果たしていた。臨海部に大規模工場が多くあり、また多摩川沿いを走る南武線沿線に戦時経済の拡大に伴い、その当時の最新の設備を持つ工場が次々に造られていった。そのため、米軍から最重点の攻撃目標の一つとされていたのである。
昭和17(1942)年の空襲でも死者34名という被害を受けた。昭和19(1944)年から本格的な空襲が行われ、川崎市でも、昭和20(1945)年4月4日に約50機のB29が飛来し、死者194名、負傷者243名、罹災者1,770名、全半壊焼失家屋470戸、全半壊焼失工場119という被害を受けた。4月15日に最大規模の空襲が行われ、200機余の米軍機が飛来し、焼夷弾と爆弾合わせて1,110トンが投下され、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受け、多大な死傷者を出した。全半壊家屋33,361戸、全半壊工場287、罹災者は10万人を超えた。川崎市が空襲で出した死傷者の大半はこの大空襲によるものである。
<空襲後の市中心部:六郷橋から川崎駅西口方向を見る>
<空襲後の市中心部:川崎市役所から砂子‐土呂久橋方向>
<昭和通りから川崎市役所方向>(空襲直後)
<貝塚通りから川崎警察署方向>(空襲後)
戦争が終わった時、川崎市の中心部は焼け野原になっていた。半数近い市民が焼けだされていたため、川崎市は昭和20(1945)年12月に住宅緊急措置令を出し、軍需工場などの工員寮で空いていたものを借りて共同住宅にするなど、住宅難への対応を行った。また、昭和20(1945)年9月に戦災孤児等保護対策要綱などを定め、戦災孤児についての調査や合宿所の設置などを行った。工業都市として再興していくための復興計画を作り、財政難を克服しながら市営埠頭、幹線道路の整備や区画整理等を進めていった。その後、京浜工業地帯の中核都市として、やがて高度成長を牽引する地位を占めることになった。
(「川崎市における戦災の状況(神奈川県) : 一般戦災ホームページ」より)
《補足》「goo」の昭和22年(1947)の航空写真でも「市役所」が残っているのみで、ほとんどまだ手つかずの焼け野原であったことが分かる。
川崎市平和館・公文書館 「川崎大空襲記録展」『川崎大空襲記録展』私たちのまちに「空襲」があった』を開催します
川崎大空襲の日(4月15日)を中心として、川崎大空襲の記録及び「空襲」に関する展示を行います。今回は、子どもたちの平和に関する発表も展示します。
また、展示初日にはオープニングイベントを開催します。戦争の悲惨さを知り、改めて平和の尊さについて考えてみませんか?
【期間】 平成26年3月8日(土)~5月6日(火・祝) 午前9時~午後5時
月曜日(祝日の場合は翌日)と第3火曜日は休館
【場所】 川崎市平和館1階 屋内広場(川崎市中原区木月住吉町33-1 電話:044-433-017)
【内容】
1 パネル展示
2 オープニングイベント
「戦争体験を語る・聞く」 ~空襲などのお話を体験者の方からお聞きします~
(「nakahara.jimotomo.info/2014/03/2014---6c55.html」より)
徳川幕府が、東海道に駅制を定め、諸駅を設置した慶長6年(1601)のこと。諸駅より20年ほど遅れて川崎宿は元和9年(1623)に設置されました。それまでは品川宿の次は神奈川宿。往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、その中間に位置する川崎に新しい宿場・駅を設置しました、とされています。
川崎市では、川崎宿成立400年となる2023年に向けてその歴史と文化を継承する企画が進んでいるようです。
「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板。
関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。 川崎市
200年もの間、渡し船が行き交う場所だったわけです。
対岸(大田区側)を望む。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。六郷川(多摩川)をはさんで旧東海道。「六郷渡船場」とある。
地元の鈴木左内が明治7年(1874)に木造有料の「左内橋」を架けたが、明治11年(1878)に流されてしまったため、この図には描かれていない。左の直線は、鉄道。東京側だが「梨畑」とあるのに注目。左下に連なるのが「川崎宿」の町並み。
「明治天皇渡御記念碑」。明治元年(1868)十月十二日、天皇は東下の道中、二十三艘でつくられた舟橋を渡って江戸(東京)に入った。
そのようすを描いたレリーフ。
(「制作 web-photographer 上野 隆史 Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)
川崎は「長十郎梨」の原産地でもあった。「長十郎梨のふるさと」。
すでに終了したイベントですが。
より
掲載号:2014年3月14日号
市民有志実行委
「長十郎梨育てませんか」
苗木作りの参加者募集
「区の木」に制定されている長十郎梨を自宅で育ててもらおうと、市民有志で組織された実行委員会が苗木作りの講習会を開催する。賛同者を広げ、区内に梨畑が広がっていたかつての景色を取り戻せればと夢見る。
大師河原発祥の長十郎梨が盛んに栽培されていたのは明治・大正時代。当時の区内は梨畑が広がり、俳人・正岡子規は『多摩川を 汽車で通るや 梨の花』と詠んだ。そんな光景に近づけたいと、長十郎まつり実行委員会(石渡孝明委員長)が企画した。
実行委員会は前身にあたる市民有志グループが05年から行っている長十郎梨の植樹会や収穫祭、小学校の体験教室等を引継ぎ、昨年9月、若宮八幡宮で長十郎梨の奉納祭を実施。苗木作りを通じ、長十郎梨をより身近に感じてもらおうという狙いもある。
メンバーの一人である阿部英夫さんは「接ぎ木を使って苗木を作る機会はなかなかないし、面白い。説明を聞きながら作れば、そんなに難しくないですよ」と話す。作った苗木は、うまく育てばおよそ4、5年で数個の実をつけるという。阿部さんは「ぜひ庭に植え替えて大きく育ててほしい」と話すが、ポットに入った状態で持って帰ることができるので、庭などの植え替える土壌がなくても、鉢で育てることが可能だ。
苗木作りの講習会は3月18日 、砂子の東海道かわさき宿交流館4階で開催。神奈川県農業技術センター職員から接ぎ木の仕方を学び、接ぎ木を台木に括り付けて苗木を作る。
当日は、俳優で同実行委員メンバーの中本賢さんも来場し、長十郎梨の歴史などを講演する。午後1時30分から3時30分まで。定員は先着20人。費用は材料代として1500円。
申し込みは電話かFAXで、同実行委員長の石渡さん(【電話】044・288・5885、【FAX】044・288・5861)へ。
梨ならぬ大きな実をたくさんつけた柚の木が沿道にありました。
これまで、「川崎」にはあまりなじみがありませんでした。横浜への通過地点・駅くらい。その後、何度か川崎駅東側にある「体育館」「教育文化会館」等へ出向く機会がありました(「競馬場」や「競輪場」には縁がありませんが)。それも、駅から向かい、そして帰るだけ、という感じ。今回、初めて街を東北から西南へ歩いたということになります。
川崎は、戦争末期、米軍機の空襲でほとんどが焼け野原になってしまった地域。
そんな歴史を持つ街。
京急大師線。
「大師道」分岐。「第一京浜」(旧東海道に一部が重なっている)をくぐる手前。「万年横丁 大師道」。「万年」は有名なお店「万年屋」に由来する。
「川崎大師」への道。
国道をくぐった所にある案内板。「六郷の渡しと旅籠街」。そこに、川崎宿の概要が記されている。
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を下りて川崎宿に入ると、街道筋はに賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤家、小土呂じゃ小宮・・・」。なかでも万年家とその奈良茶飯は有名だった。
川崎宿の家並
旅籠六十二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、 油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など、合計三百六十八軒。 -文久三年(1863)の宿図から-
※「奈良茶飯」
少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある。
元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。
江戸時代初期の『料理物語』には、茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。
日本各地に番茶などで煮出した茶汁で炊いた茶飯や茶粥が伝えられている。
日本の外食文化は、江戸時代前期(明暦の大火以降)に江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まったと言われ、現在の定食の原形と言えるもので、奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された。これにより、奈良茶飯は、関西よりもむしろ江戸の食として広まっていった。
川崎宿においては、文化文政時代に、万年屋が奈良茶飯で有名であったと伝えられ、また亀屋という店でも茶飯の提供が行われていたとされる。
十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に万年屋および奈良茶飯が登場したことで一層有名となり、万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したという。
振り返って「第一京浜」ガードを望む。
おひるどきの旧東海道を南に向かって進む。
上には、「川崎宿」。
道には「旧東海道」。電線もなく、街灯も宿場町らしい雰囲気のもので統一され、歩き心地のいい道筋。同好の士のような方々も、ちらほら。
田中本陣跡。
説明板。
「田中本陣」模型。
古文書や絵図から宿場の公的施設のあった所が明確になっているようで、道筋の所々に案内板が設置されている。ここは、「助郷会所」のあったところ。
陽春に誘われての散歩道。
来年は、戦災そして敗戦から70年を迎えようとしています。賑やかな町並みの復活と未来。そこで、「川崎大空襲」のおさらいをしておいて、この先の「川崎宿探訪」を続けます。
《付》
川崎市における戦災の状況(神奈川県)
川崎市は、昭和17(1942)年4月18日の米軍による初めての本土空襲でも、攻撃目標になった。その後、昭和19(1944)年以降空襲が本格化するとともに、川崎市に何度も米軍機が飛来し、その度に被害を受けた。昭和20(1945)年4月15日に200機余のB29 による大規模な爆撃を受け、市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害を受けた。
戦前から川崎市では重化学工業を主とする産業が発展しており、軍需生産でも重要な役割を果たしていた。臨海部に大規模工場が多くあり、また多摩川沿いを走る南武線沿線に戦時経済の拡大に伴い、その当時の最新の設備を持つ工場が次々に造られていった。そのため、米軍から最重点の攻撃目標の一つとされていたのである。
昭和17(1942)年の空襲でも死者34名という被害を受けた。昭和19(1944)年から本格的な空襲が行われ、川崎市でも、昭和20(1945)年4月4日に約50機のB29が飛来し、死者194名、負傷者243名、罹災者1,770名、全半壊焼失家屋470戸、全半壊焼失工場119という被害を受けた。4月15日に最大規模の空襲が行われ、200機余の米軍機が飛来し、焼夷弾と爆弾合わせて1,110トンが投下され、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受け、多大な死傷者を出した。全半壊家屋33,361戸、全半壊工場287、罹災者は10万人を超えた。川崎市が空襲で出した死傷者の大半はこの大空襲によるものである。
<空襲後の市中心部:六郷橋から川崎駅西口方向を見る>
<空襲後の市中心部:川崎市役所から砂子‐土呂久橋方向>
<昭和通りから川崎市役所方向>(空襲直後)
<貝塚通りから川崎警察署方向>(空襲後)
戦争が終わった時、川崎市の中心部は焼け野原になっていた。半数近い市民が焼けだされていたため、川崎市は昭和20(1945)年12月に住宅緊急措置令を出し、軍需工場などの工員寮で空いていたものを借りて共同住宅にするなど、住宅難への対応を行った。また、昭和20(1945)年9月に戦災孤児等保護対策要綱などを定め、戦災孤児についての調査や合宿所の設置などを行った。工業都市として再興していくための復興計画を作り、財政難を克服しながら市営埠頭、幹線道路の整備や区画整理等を進めていった。その後、京浜工業地帯の中核都市として、やがて高度成長を牽引する地位を占めることになった。
(「川崎市における戦災の状況(神奈川県) : 一般戦災ホームページ」より)
《補足》「goo」の昭和22年(1947)の航空写真でも「市役所」が残っているのみで、ほとんどまだ手つかずの焼け野原であったことが分かる。
川崎市平和館・公文書館 「川崎大空襲記録展」『川崎大空襲記録展』私たちのまちに「空襲」があった』を開催します
川崎大空襲の日(4月15日)を中心として、川崎大空襲の記録及び「空襲」に関する展示を行います。今回は、子どもたちの平和に関する発表も展示します。
また、展示初日にはオープニングイベントを開催します。戦争の悲惨さを知り、改めて平和の尊さについて考えてみませんか?
【期間】 平成26年3月8日(土)~5月6日(火・祝) 午前9時~午後5時
月曜日(祝日の場合は翌日)と第3火曜日は休館
【場所】 川崎市平和館1階 屋内広場(川崎市中原区木月住吉町33-1 電話:044-433-017)
【内容】
1 パネル展示
2 オープニングイベント
「戦争体験を語る・聞く」 ~空襲などのお話を体験者の方からお聞きします~
(「nakahara.jimotomo.info/2014/03/2014---6c55.html」より)