おやじのつぶやき

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九州鉄道大蔵線遺構。北九州市産業遺跡の旅。その2。

2014-03-25 23:55:37 | 鉄道遺跡

 九州鉄道大蔵線は、かつて福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)の小倉駅と遠賀郡黒崎町(現・北九州市八幡西区)の黒崎駅の間を結んでいた鉄道院の鉄道路線ですでに100年以上前に廃線となっています。

《歴史》
 九州鉄道本線(現・鹿児島本線)の一部として開業した。九州鉄道側では小倉 - 黒崎間は戸畑経由とする予定であったが、海岸部に鉄道路線を敷設することについては、陸軍が艦砲射撃による線路破壊を危惧して反対した。そのため、内陸部にある大蔵地区を通る経路に変更し、敷設した。
 その後、戸畑経由の路線(戸畑線)も開通した。鉄道国有法施行に基づく国有化後の1908年、戸畑線を複線化した上で本線(当時の名称は人吉線)に編入し、大蔵経由の区間は大蔵線として、本線とは別の路線になった。
 大蔵線となった後は蒸気動車を導入し合理化を図ったが、大蔵線に並行して九州電気軌道(のちの西鉄北九州線)が開業したため廃線となった。

《年表》
1891年(明治24年)4月1日 : 九州鉄道門司(現・門司港) - 黒崎間の一部として開業。
1898年(明治31年)9月5日 : 大蔵駅が開業。
1907年(明治40年)7月1日 : 九州鉄道の国有化に伴い、国鉄八代線(→のち人吉線)となる。
1908年(明治41年)7月1日 : 小倉 - 戸畑 - 黒崎間が人吉線に編入されたことにより、小倉 - 大蔵 - 黒崎間を大蔵線と改称。
1909年(明治42年)10月12日 : 国有鉄道線路名称制定により、大蔵線とする。
1911年(明治44年)10月1日 : 廃止。(以上、「Wikipedia」参照。)

 わずか20年間。それも明治の終わりには廃線となってしまった路線。その痕跡が二箇所ほど今でも残っている、らしい。そこで、その一つへ案内してもらいました(実は出かける前に調べて置いたので、むりやり頼んで連れて行ってもらった)。
 それが「尾倉橋梁」。市立皿倉小学校の裏手に当たる。
この橋は、「茶屋橋」と同様、「煉瓦アーチ」橋。橋の下の細い通りは、かつて、小さな河川だったようです。

 もう一カ所、もう少し山側の方に、「茶屋町橋梁」が遺構としてあるようですが、そこへ行くのはお願いしすぎ。いずれも、北九州市の市指定史跡で、100年以上の昔の「九州鉄道大蔵線」の貴重な遺構。

 橋の上(北側)には民家が建っています。珍しい光景。

橋梁(南側)の上から階段下を望む。
西側(黒崎駅方向)を望む。かつての線路跡らしい趣だが。
東側(門司港方向)を望む。けっこう幅広い線路道だったようだ。
左手が橋梁上の建物の一部。線路沿いに建てられたものらしい。

↓が大蔵線跡の道路。○が橋梁。
石垣。けっこう高いところに橋梁を架けていた。

橋梁脇にある説明板。

 この橋梁は明治24年(1891)4月に開通した九州鉄道大蔵線の施設です。壁体は煉瓦の長手と小口を交互に積んだイギリス積み。煉瓦の小口を5段積みにした弧型アーチで、アーチの迫台は煉瓦積みの上に花崗岩をのせた構造。北側は一段ごとに煉瓦を迫り出した意匠としています。これは同区内にある市指定史跡である茶屋町橋梁と同じ手法です。・・・(九州鉄道大蔵線の歴史が刻まれてあり、上記のものとほぼ同じため、割愛)・・・市内には鉄道敷設当時の施設で残されているものは数少なく、この橋梁は本市の交通史上貴重なものとなっています
 平成7年3月 北九州市立平原小学校80周年記念事業委員会
コメント
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