さて、これから「三島宿」に向かって気を引き締めて・・・。
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大型トラックが停まっている駐車場をぐるりと石畳道を進む。その一角に「新箱根八里記念碑(峠の地蔵)」。
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ここからは、神奈川県から静岡県に入る。
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駐車場のはずれで国道から離れ、県道を進みます。
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左手に「兜(かぶと)石坂」の入口。
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「是より江戸二十五里」。 「是より京都百里」。
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この辺りは、茨が生い茂っていたので「茨ケ平(ばらがだいら)」と呼ばれていたそうだ。
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頭上を篠竹に覆われた坂道。当時からこうだったとは思えないが・・・。ユニークな道筋ではある。
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しばらく下って行くと、明るく開けたところに。
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国道1号線に合流して進む(本来の旧街道はそのまま直進していた。国道建設で分断されたかっこうになっている。三島市と函南町との境界線は、直進した旧道に沿って現在もそのままになっている。その旧道は廃道になり、通行不能と思われる。)と、バス停「接待茶屋」。
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旧道入口の左手に「山中新田一里塚」。江戸日本橋より26番目。(25番目の「一里塚」はどこに?)
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東海道線が開通する明治22年(1889)まで、箱根八里の山越えは旅人達にとって困難な道でした。特に晩秋から早春にかけて、峠付近では雪の日も多く危険な道程であり、旅人や荷物を運搬する馬子達の避難場所が必要でした。
箱根峠に程近い、施行平【せぎょうだいら】に接待小屋が設けられたのは今から約180年前、文政7年(1824)のこと。公的機関ではなく、江戸の商人加勢屋與兵衛という義人が運営したのです。私財50両を投じこれを基金として、馬に飼葉を与え、冬には旅人に粥【かゆ】と焚き火【たきび】を接待(サービス)しました。茶店も姿を消す冬には寒さをしのぎ体を暖める安らぎの場だったです。
しかし、基金は底を尽き、三十年後に茶屋は閉じられます。
明治に入り、下総(千葉県)性理【しょうり】教会二代目会長の遠藤亮規は箱根峠に接待所の必要性を感じ、その遺志を継いだ門人達が明治12年(1879)接待茶屋を再開します。
その後、門人の鈴木利喜三郎とその子孫が運営を引き継ぎ、一年を通し無料で旅人達にお茶をサービスし、病人や山で疲れた人々の避難場所となっていました。
鈴木家の人々は教会からの援助が途絶えたため、箱根竹を出荷したり鶏を飼うなどして、接待を維持します。その心意気に感じた人々が、全国からお茶や茶碗を送ってきました。
時代は徒歩の旅から車へ、石畳道から舗装道路へ変化し、利用者も減ったため、昭和45年(1970)店が閉じられ、平成5年(1992)国道拡幅工事のため建物も取り壊されてしまいます。
明治以後百年にわたり、夏も冬も湯を沸かし、茶を提供し続けた茶釜は、今でも坂老人会の祭りで利用されていました。
貧しい人からも、天皇・皇族からも一銭もいただかず茶を奉仕した事を誇りにしてきた接待茶屋に、ボランティア精神の原点、三島の良心を見る思いがします。
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(以上、
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箱根方向に向かう「バス停」のところに、フェンスに囲まれた大きな空き地がある。茶屋の位置は道路の付け替え等で変遷があったようで、最終的にはそのところにあったものか?
注:「説明板」に掲載された写真は、「大正時代中ごろ」のもの(写真提供 三島市郷土資料館)
しばらく進むと、左に「徳川有徳公遺跡」(「有徳(公)」とは「徳川吉宗」のこと。吉宗の戒名「有徳院殿贈正一位大相国」から来ている。)、右側に「兜石」。
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豊臣秀吉が小田原攻めをするとき、この石の上に兜を置いて休んだといわれる。兜を伏せたような形から、そう名付けられた、とは思うが。
元々は、初めの石碑位置にあり、国道1号線建設のためにここに移設した、という。
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その脇のちょっとした丘の斜面に二人連れの女性が休憩中。「三島」まで行くとか、お先に失礼!
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石畳の坂道が続く。
「念仏岩」付近で坂道を上ってくる男性グループとすれ違う。「箱根関所」まで行くのだとか。平日でもこうして行き来する旧箱根街道。
「もう少し行くとトイレがありますよ。そこで休憩するといいですよ。」
「ありがとうございます。」
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そのうち、先ほどの女性陣が通り過ぎて行く。「お先に失礼!」
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下って行くと、農家の庭先に。
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国道を横断して左側を歩いていくと、その先には「三島市」の標識。
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国道沿いに進むと、「箱根旧街道 願合寺地区石畳復元・整備」事業の入口となる。
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「箱根旧街道 願合寺地区の石畳復元・整備」
・・・
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「願合寺地区」 721mのうち、昭和47年に修復整備をした255mの中間部を除く約466mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成7年度(1995)に復元・整備した。
発掘調査の結果、石畳幅二間(約3.6m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたものであることが確認された。また、寛政年間(1789~1801)に描かれた「五街道分間延絵図」に記載がある「石橋」が二ヶ所発見された。
調査の結果を基に、管理のための下部基礎をもうけ、下図のように、石畳がよく残っていた所約188mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約278mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
また発見された「石橋」のうち、「一本杉石橋」と称される一か所は保存状態がよいのでそのまま残した。
平成8年 三島市教育委員会
緩やかな下りの石畳道。木漏れ日。
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下った先が国道との合流地点。その手前に「雲助徳利」の墓。
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雲助の墓は、もと接待茶屋付近にありましたが、現在は山中新田東端の老杉の下にあります。
この墓の主は、久助という人で、なかなか立派な家の出であったといいます。一説には武家の生まれともいわれ、なかなかの器量人であった様です。しかし、どのような理由からか一生を人の卑しむ雲助で終わりました。
日頃、頭役となって仲間の取り締まりをしていましたが、困窮の者や若者のめんどうを、身銭を切ってもしてやりました。これは、雲助だけのことではなく、街道筋の百姓にも同じでした。
ことに、往来の悪者に難くせをつけられて、弱りきっている者を身をもってかばってくれたといいます。
したがって、仲間の者からも、また、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は、終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったといわれています。
その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助の墓」といわれるこの墓なのです。
石碑の前面に、大きく杯と徳利を浮彫にして、全体にしゃれた趣を漂わせたこの墓は、彼の人柄をよく表現しています。往年は、香華の煙の絶えることがなかったといわれています。
(以上「
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三島市」HPより)
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