12月10日。まだまだ太平洋側は晴れが続くだろうと思って、やってきました。しかし、三島で降りる頃には、怪しい雲行き。このコースは、富士山を展望しながら、と思っていました。が、雲の向こうに、白雪の頂が時折見えるだけ(白と白で肉眼でかろうじて判別できるが、携帯ではまったく区別がつかない)。
寄り道もしたので、「原」までとの当初の目的を果たせず、その途中まで。何とか雨にだけは遭わずにすみました。
JR「三島駅」に午前9時過ぎに着き、「片浜駅」から午後3時過ぎの電車で戻って来ました。歩行距離合計、約15㎞。
寄り道したところは、「千本浜」、そして沼津から沼津港へ向かう貨物線の「廃線跡」。回り道した甲斐がありました。

これは、富士山から40㎞流下してきた三島溶岩流の末端にあたるものらしい。
ここからスタート。前回は、「三島大社」までなので、いったんそこまで戻って、西に向かって歩き始めました。


「問屋場跡」。三島中央町郵便局脇。



「樋口本陣跡」。 東を望む。
通りをはさんで真向かいにあるのが、「世古本陣跡」。


しゃれたモニュメントにお休み処的雰囲気。
少し進むと、「源兵白旗橋」。


この橋は、江戸時代の伊豆五色橋の一つ。他の四つの橋は、「青木橋」「赤橋」(三島市内)「黒瀬橋」「黄瀬川橋」(沼津市内。
「源兵衛川」の源流は「楽寿園」の小浜池。中郷地区の農業用水のために人工的に作られた川。川の名称はこの計画を立て、架線工事に深い関わりをもった寺尾源兵衛に由来する。
戦後、水量も激減し、汚染もひどくなったが、その後、環境整備事業によって、かつての清流を取り戻した。清掃やホタルの生育など三島市民の活動によって支えられている。
川沿いには、コンクリートの鐘楼に時の鐘がかかっています。 江戸時代はこの鐘で宿場の人々に明け六つ、暮れ六つの時を知らせました。


三石神社の境内にあるこの鐘は江戸時代から旅人や町民に親しまれてきました。・・・
しかし、第二次世界大戦時には供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民有志によって造られたものです。
そのまま進むと、「三島広小路」。旧東海道は、左の道になります。振り返って見たところ。通過する電車は、三島と修善寺を結ぶ「伊豆箱根鉄道・駿豆(すんず)線」。

地元では社名をもじって「いずっぱこ」と呼ぶことも多いらしい。
路線名の駿豆とは駿河国と伊豆国を意味するが、これはかつて同線が駿河国に属する沼津市と伊豆国に属する三島市の間に軌道線(路面電車、1963年廃止)を運行していた駿豆電気鉄道の路線だったことから来ている。
駿豆線自体、かつては(旧)三島駅(現・御殿場線下土狩駅)を国鉄線との接続駅にしていたため、駿河国域をわずかにかすめていたが、1934年の(新)三島駅開業後は全線が伊豆国内を走っている。

大学生の頃、修善寺に行った時に一回乗った記憶があるだけ。見所満載の路線らしいが・・・。
同じ鉄道会社が運行する「小田原~大雄山間」の「大雄山線」にもとんと縁がない。どちらの線も、機会があったら乗ってみようか。


旧道。車もほどほどの交通量。
通りすがりの看板に、
江戸時代から旅人達の汗がにじんだ「東海道」
農兵節に唄われた三島女郎衆はこの地に居ました
とありました。
「三島農兵節」(歌詞)
富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ
富士のサイサイ 白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ 女郎衆は御化粧が長い
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ
御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ 御客おこればノーエ
御客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ
石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ
頭サイサイ 丸けりゃからすが止まる
からす止まればノーエ からす止まればノーエ
からすサイサイ 止まれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ
娘サイサイ 島田は情けでとける

静岡県の数ある民謡のうちでもチャッキリ節とともに全国に知れわたっている民謡です。
江戸時代の末期、今からおよそ150年ほど前の嘉永年間、伊豆韮山代官「江川太郎左衛門英龍(坦庵)」は日本を外国の攻撃から守る必要性を幕府に訴え、韮山に反射炉を設け大砲を製作するかたわら、若き農夫を集め、彼らを兵力とするためその訓練に力を注いでいました。
農兵の調練は韮山代官所(現在の三島市役所の場所)で行われました。
文久年間に幕府は江川氏の農兵調練の実益を認め、制度として法令を定め、大いに農兵の調練に当たり、三島調練場で行われた農兵の訓練では志気の鼓舞と団結を図るため、部隊の先頭に鼓笛隊が組織されたと言われています。
この故事にあやかり、当時東海道筋で流行していた「ノーエ節」を「農兵節」として、昭和初期に平井源太郎によって現在の農兵節が作られました。そして全国に知れわたる「三島農兵節」となり、三島の代表的な民謡として三島夏まつりには欠かせないものとなっています。
現在はその伝統を三島農兵節普及会が譲り受け継ぎ、三島の観光発展に寄与しているとともに農兵節の伝承・後継者育成を行っています。
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また、「三島女郎衆」の起源として、天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原北条氏攻撃に際し、将士の休養のために女たちを与え慰安(いあん)したということが伝えられています。秀吉の命により三島へ集められた女たちは、かなり遠く京、大阪付近の人もいたそうです。
三島宿では、これらの女たちが宿場女郎、飯盛女郎としてかなり大勢働いていました。幕府は何度か、この種の女たちを置かないようにと規制しましたが、宿場側の激しい抵抗にあい、やむなく目をつぶっていたようです。
その後、この女たちは「三島女郎衆」と呼ばれ、農兵節にも歌われて東海道で有名になっています。
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しばらく行くと、左手に「秋葉神社」。ここまでが「三島宿」。

その西側に流れる川が、「境川」。「伊豆」と「駿河」の国境。

道路を挟んだところに、「千貫樋」の説明板。

伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。
創設については諸説があるが、天文二十四年(1555年)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。
樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。千貫樋の樋名については
1.架設が巧みなため銭千貫に価する。
2.この用水が高千貫の田地を潤している。
3.建設費が銭千貫を費した。
等が、命名の由来と伝えられている。
清水町教育委員会


奥のコンクリート枠に「千貫樋」と刻まれている。
「清水町」は、静岡県駿東郡に属する町。ここから「駿河国」に入ることに。