「歩道橋」を渡ると、「山中新田」、山中城跡。
向かって左からやって来た道を振り返って望む。
「史跡 山中城跡」。
山中城跡は、文献によると、小田原に本城があった北条氏が、永禄年間(1558~1570)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
箱根山西麓の標高580㍍に位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国末期の天正18年(1590)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。その結果、本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。特に障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害する、という北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁等の建築用材、日常生活用具等がある。なお、三ノ丸跡の宗閑寺には岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。
平成8年2月 三島市教育委員会
広大な規模を持つ山城だったようだ。
国道を挟んで向かいにある「竹屋」。
このお店、もともと「うなぎ」屋さんだったらしい。現在は、裾野市へ移転している。今のお店は「休み処 茶屋」として営業している?
「鰻工房竹屋」が裾野市に移転し、2014年07月04日 「うなぎ竹屋」として開店致しました。今後とも、よろしくお願いいたします。(お店のHPより)
しばらく国道1号線を進みます。
久々に見た標示。「(日本橋から)108㎞」ポスト。
その先をまっすぐ進む道が旧道。
「芝切地蔵」。
そのまま下って行くと、
立ち寄って見学したい、とも一瞬思ったが、やはり先を急ごう!
旧道はその前の国道を横断して「腰巻地区」の石畳道を下って行く。その途中に石碑。
昭和60年(1985)、「三島青年会議所」の働きかけで東海道箱根道東坂・西坂に「箱根八里記念碑」が8基設置された、とのこと。
箱根旧街道を散策する人々にとって旅のひとときの憩いになればと、8人の現代一流文化人が街道に寄せる熱いメッセージを埋め込んだ石碑、というコンセプトらしい。その一つ。
司馬遼太郎の石碑。
幾億の跫音(あしおと)が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ
石畳の坂道を下り、国道に出てしばらくすると、右手に旧道の案内板が見えてきた。その前に警備員が立っている。イヤな予感。
工事中のフェンスががっちりガード。通行止め。
ここまで来て、初めてお目にかかった富士山。残念ながらフェンス越しにパチリ。
結局、指示された通りに迂回して国道1号線をそのまま下って、「富士見平」へ。
「芭蕉の句碑」。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
旧道はその句碑の右手からここへ出てくる。正面に富士山が見えている構図なので感動もひとしおのはずだった!
車の激しく行き交う国道歩き、それに送電線が邪魔をしていて、どうも「富士見平」という実感が・・・。それに加えて、「句碑」も頑丈なばかりで無粋な印象。芭蕉の句もいまいち。
さっさと通り過ぎて旧道にと道路を渡ろうとしたが、その先の旧道、無情にも「通行止め」。かくして、またまたカーブの多い国道沿いを下って行くことに。
おかげで、旧道では二箇所しかない「左富士」? を眺めることに。
旧道の出口付近。
右手遠くに辺りを圧する高い工作物と吊り橋のような・・・。
「箱根西麓・三島大吊橋」の工事だった。2015年12月に完成すると、日本一の人道大吊橋になるそうだ。工事車両が激しく行き交っている。
静岡県三島市。雄大な白然あふれるこの地に誕生する「箱根西麓・三島大吊橋」。
歩行者専用吊橋として日本最長のこの橋からは、空へそびえる富士山の様々な表情や広大な駿河湾の絶景が一望できます。
アクセスも箱根峠からクルマで約10分、沼津I.Cから約15分と至便。県内はもとより、全国から年間180万人の集客を見込んでいます。
地域の新たなシンボルとして、ふるさと三島の魅力を全国へ渡してゆく。そんな想いのもと、これからも地城の皆さまと共に歩んでいきます。
(HPより)
果たして思惑通りにいくか???
警備員の案内通り、国道を横断して向かいの旧道へ。田畑の続くのどやかな、石畳の坂道。
振り返って望む。
のんびりと下ってくると、左手に「一里塚」。
「笹原の一里塚」。日本橋からは27番目。反対側は畑と化している。
この付近、「旧道」を巻き込んでの新道建設工事が進んでいるようだ。
国道を横切って「こわめし坂」に向かいます。