おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

常夜燈。伏見一里塚。対面石。沼津日枝一里塚。三枚橋。・・・(三島から片浜へ。その2。)

2014-12-14 19:40:40 | 旧東海道

 旧道らしい道筋が続きます。

「こうじ製造所」という看板を掲げた古いたたずまいの家。

 通りの右手にある常夜燈。

 その左先には、細かい絵入りで、個人の手による親切な行き先案内板。

  

 「一里塚」間の距離と時間を示してくれていて、便利。この図では次の一里塚(29番目)は地名から「新宿一里塚」とあった。

 築百年のおうち。目下、補強工事中らしい。

 しばらく行くと「伏見一里塚(日本橋から29里)」がある。「玉井寺」という寺にあるため「玉井寺一里塚」とも。
 反対側には、最近復元された一里塚があり、これは寺の名から「宝池寺一里塚」と言われている。

  
                          「玉井寺一里塚」。(右手にあるもの)

  
                          「宝池寺一里塚」。(左手にあるもの)

 すぐ先が「八幡」の交差点。久々に出会った「国道1号線」を渡ってそのまま進んでいきます。

  
                          「対面石」と「ねじり柿」。

 しばらく進むと、右側に対面石で知られる八幡神社の参道が見えてきます。
 対面石は治承4年(1180年)10月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、黄瀬川に陣取っていた頼朝と、奥州からかけつけた弟の義経がこの地で初めて涙の対面をはたした時に兄弟が腰かけた二つの石らしい。もともとは、別のところにあったものとも言われている。
 また、源頼朝が柿を食べようとしたところ渋柿だったため、種をねじって捨てた。すると、後に出た芽が2本の木に成長し、幹をからませねじりあっていたことから「ねじり柿」と呼ばれるようになった、とか。

松並木を過ぎると、「黄瀬川橋」。この橋を渡ると、沼津市。

  
狩野川・香貫山(かぬきやま)方向。              上流・「愛鷹山」方向。

 「香貫山」は、沼津駅から南東に1km程のところにある市街地に隣接した小山。最高点は標高193mで、山頂付近にある展望台からは沼津市街地や駿河湾が一望でき、天気が良ければ愛鷹山越しに富士山も眺めらる。また、中腹にある香陵台には戦没者を慰霊する五重塔や売店があり、春には満開のサクラが楽しめる、らしい。

「旧東海道」という表示。

 「亀鶴の伝説」が残る「潮音寺」を過ぎると、

注:亀鶴の伝説
 小野政氏という長者が子に恵まれないため里の観世音に祈ったところ一女に恵まれた。その子は名前を亀鶴という美しい子であった。両親に早く死なれ、18才の時藍壺に身を投げて死んだという。一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが、遊女亀鶴は応じないで入水したといい、また工藤祐経に召されたが、曽我兄弟の復讐で祐経の後を追って死んだともいわれている。

HPより)

右手に「傍示石(杭)」が立っています。

  
 「従是西 沼津領」。この「傍示石」が東海道沿いの「黄瀬川村」と「下石田村」の境界に建てられて、沼津藩領域が確定した。

右(東)が「黄瀬川村」、左(西)が「下石田村」にあたる。

 「東下石田」で県道380号線と合流して、道なりに進むと、右手に大きなショッピングモール「西友」。その反対側のスポーツ・ジムのところに「歴史マップ 沼津市大岡(下石田村―江戸時代)」の説明板。

  

 歴史に関わる旧跡などがいくつも示されている。

                「東海道 駿府へ十五里」

 しばらく行くと、左に入っていく「狩野川」沿いの道に進みます。狩野川に架かる「黒瀬橋」の下を通り抜けると、

  
                                「平作地蔵の祠」。

日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来

 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。

 沼津千本浜の場面

 平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。

                                      山王前自治会

 「日本三大仇討ち」といえば、「忠臣蔵」、「曽我兄弟」、そして、この話。荒木又右衛門の仇討ち話は昔、昔聞いたことがあるが、とんと忘れてしまっていた。最近は、「曾我兄弟」の仇討ち談も耳にしなくなって、もっぱら「忠臣蔵」。

 この『賀越え道中双六』という狂言。道中双六に見立てての大芝居。今月(12月)、東京・国立劇場では、中村吉右衛門を座頭にして、このお芝居を上演中。ただし、「沼津の段」はない(昨年の11月の公演ではやったようだ)。

        
 今年の公演。                   昨年の公演。左下が「平作」。


 なお、第六段(「沼津」「千本浜」)は、この段だけでも上演されるほど。
 上の説明板にもあるように、生き別れになった親子の情や仇討ちの志との葛藤・・・、思いがけない悲劇性が観客に感動を与える。

 それにしては、この祠、いささか寂しい趣。かつてはもっと寺域もあったのか、度重なる狩野川の改修工事のために、祠だけが残ったのだろうか? それでも香華が手向けてあった。

その付近から来た道を振り返る。上に見える橋が「黒瀬橋」。

 しばらく進むと、右手の小公園に「沼津日枝一里塚」。日本橋から30番目の一里塚。

  

 「一里塚」(江戸時代初期・江戸から三十里)

 一里塚は、慶長9年(1604)江戸幕府が江戸日本橋を基点として一里ごとに設けた里程標で、主要な街道の両側に塚を築き、榎や松を植えたものです。これは、従来一里を六町としていたが、一里を三十六町に変えたため、その周知を目的にしたものともいわれており、榎や松の木陰は、旅行く人の憩いの場としても利用されたことでしょう。
 この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺及び宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。
 また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに植えられています。

 平成10年11月 
                 沼津市教育委員会

 また、小公園の入口付近には、12、300年前に玉類を磨くのに用いられたといわれる玉砥石が保存されている。


 上の説明板にもあるように、1998(平成10)年に小公園として新しく整備されたようです。
 なお、現在、「日枝神社」は、公園の東側の道を北上し、大通りを渡った先に大きな社を構えている。

 しばらくすると、再び広い県道に合流。その付近に「東方見附」があったと思われる。

「三枚橋」。

 見落としてしまいそうな小橋「三枚橋」を過ぎると、沼津宿の核心部へ。



東海道五十三次之内 沼津 黄昏図 / 歌川 広重
(とうかいどうごじゅうさんつぎのうち ぬまづ たそがれず)
 「東海道五拾三次」の中で唯一の月景である。大きな満月が上がり、明るくなった狩野川沿いの道を親子の旅人と天狗の面を背負った旅人が、沼津の宿場を目前に歩いている。旅人の宿を前にした安堵感が月明りの中で夜の眠りにつきはじめる林の描き方などから伝わってくる。藍色が効果を上げている。

大正期の沼津「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より

(いずれも「」HPより)。

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