おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

原宿。富士山の霊水。原一本松一里塚。・・・(片浜から富士まで。その1。)

2014-12-20 21:59:00 | 旧東海道

 北日本を中心に大荒れの天気だった12月17日(水)。静岡地方は、一応マークになっていたので、「旧街道からの富士山」見たさにやってきました。
 しかし、富士山は裾野が見えるのみ。晴れていても厳しい西風に向かって歩き続けるはめに。名古屋地方が大雪で大変だった様子。たしかに、はるか西の方は雲で一面白く、富士山の中腹から上もすっかり覆われています。晴れてはいてもこれでは!
 ただ黙々と歩き続けました。自分だけよければいい、などという心構えを見破られた感じ、天に。

 今回は、前回の続き。JR「片浜」駅からJR「富士」駅まで。このJR区間の駅は、「東田子の浦」「原」「吉原」とあります。旧東海道も「東海道線」につかず離れずで進んで行きます。

 「片浜」駅に9時少し前に着き、旧東海道を越えた先にある「西友」(24時間営業)でおにぎり、飲み物などを購入、少し腹ごしらえをしてからの出発。
 まっすぐな道を西に向かって歩き始めましたが、思った以上に強く冷たい西風にあおられて大変、大変。

  
          東海道線の「原踏切」。いよいよ「原宿」にさしかかる。

 しばらく進むと、右手に、
「原宿」東木戸(見付)跡。

 原宿は、現在の西町、東町、大塚本田の三町から形成され、西と東の境に木戸を設けて、宿場の入口とした。東木戸の位置はこの辺ではなかったかと推定される。東木戸から西木戸まで、即ち原宿の東西の距離は660間(2.2㎞)あった。

そこから旧「原宿」内を望む。

直線道路沿いに宿場があった。


「朝之富士」(「Wikipedia」より)。

 最も富士山が美しく見える所がこの地、原である。富士山の美しさ、大きさが強調されており、画面の枠を飛び出している。右側に寄生火山愛鷹山を配し、湿地の浮島には二羽の鶴を取り入れた。男女の供を連れた女主人の見返る姿も富士山の雄姿を強調したものと思う。

                                  
                            大正期の原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より
                 (「」HPより)。


 「原宿」は、白隱禅師の里。ゆかりの跡が残されている。
案内板。
 
  

 白隠禅師は臨済宗の中興の祖といわれ、主区内のある松蔭寺住職として禅の普及につとめた方、らしい。

  
 このあたりが宿場の中心だったのか。次の「吉原宿」まで2里32町(11.3㎞)とあった。

本陣跡。

JR「原」駅。
 現在の「原宿」はJR線に沿った細長い道筋の町となっていて、駅舎も昔風の町家のデザイン。

 まもなく左手に蔵造りの建物が。

「高嶋酒造」。 

 回り込んだ建物脇には、
  

「富士山の霊水」。自噴井戸地下145.5㍍。大腸菌一般細菌無し。 高嶋酒造株式会社。

近所のお年寄りが水を汲み来ていた。

 「高嶋酒造」前の旧街道をしばらく進むと、「原宿」西側の出入口。

「西木戸(見付)跡」。

「原宿」内を振り返る。

 急に道幅が広くなる。松並木がすっかりなくなって、道幅が広くなった、とか。


「新田大橋」。
 南には千本浜から続く松並木が望める。

「原一本松一里塚」跡。日本橋から32番目。

 ここでは街道をはさんで両側にあったと思われるが、現在は宅地化されてその面影はない。

この付近のようす。

「桃里開闢400年 改称100年」記念碑。

どこまでも伸びる一本道。

 風に逆らって歩く。帽子も飛ばされそうなため、持って。左側は日陰、寒いので、なるたけ右側を歩いて行く。

再び踏切を渡る。

沼津・熱海方向に向かう東海道線・電車。

富士山はまったく見えず。手前は、愛鷹山の山塊。一日中、富士山の代わりを務めてくれた。

 線路の南側を進む。いよいよ富士市に。
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