元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士(最近、「浪士」という言い方にクレームがついたらしい、「義士」だと。この書の筆者ではないが、世間の「忠臣蔵」に引きずられているのでは? )の一団が本所・吉良邸を急襲、吉良上野介の首を取り、主君の仇を晴らした、という「事件」現場跡が、「本所松坂町公園」。その1年有余前は、この事件の発端となった刃傷沙汰、「江戸城内松の廊下」が事件現場であった。
この時期になると、ついつい気になる話題。
近場のせいか、かつて、何回かこの近辺はうろついたところ。ずいぶん前の写真だが。


実に地味な公園。狭い中に、稲荷神社とか首洗い井戸(最近、名称が変わったらしい)とかある。
吉良上野介の広大な屋敷跡のほんの一画(敷地の東北の外れに位置した場所のよう。)だったそうで、資料によれば、当時の87分の1の広さしかないらしい。
この地は1934(昭和9)年、地元の有志が購入し、公園として東京市に寄贈したものだそうで、1950(昭和25)年に、墨田区に移管された。
ちなみに、京葉道路を少し東に行った「江東橋」のたもとにある、都立両国高校は、浅野家の倉庫とか畑があった跡地。内匠頭への処分が下され、屋敷払いになったときに、手際よく家財道具などを運び込んだところ。地元でも知られざるエピソード。
毎年、12月14日には「義士祭」はもとより、「元禄市」(赤穂浪士にちなんだ品物や暖かい食品、バザーなどの露店が建ち並び、また、地元企業の服飾、皮革、雑貨商品も格安の価格で販売される)で、この界隈は賑わう。
「忠臣蔵」では敵役として扱われる吉良上野介も、20年くらい前からは「吉良祭」も義士祭の前日におこなわれている、とのこと。
「赤穂義士祭」は、赤穂市全体が一丸となり、一年を締めくくる一大イベント。義士たちが本懐を遂げるまでの物語を様々なパレードで繰り広げ、観衆を元禄の世界に引き込んでいく祭 、らしい。
また、東京港区・泉岳寺の「義士祭」。これも毎年開催されている。
泉岳寺を舞台とした義士祭では、墓前供養や献茶式が行われ、近隣の有志らが赤穂義士に扮し、泉岳寺周辺を練り歩く様子が見どころとなっている、らしい。
他の全国各地でも赤穂「義士」にちなんだ催し物が行われる、という国民的イベント。
今年は、総選挙の投票日。参加者や見物にお出かけになる方は、棄権することなく事前投票を!
と、表題の著書とはあまり関係ない話。
さて、この書。以上のように、今も尚、「忠臣蔵」的世界観(世間観)でもてはやされる一連の事件を同時代史的にはどう認識されてきたか、当事者とそれにまつわる証言をもとに当事者の肉声に迫ろうという意図を持った作品。
そこには、沈着冷静な事実の掌握に一貫している当事者の立場(その最たる者は大石内蔵助ではあるが)一方で、自己弁護やその後の世情の評価によって、後に事実の改変を行う人間たち。
特に、実父を殺害された米沢藩上杉家当主、そして自己保身に走る家老の存在、・・・、一連の「事件」に巻き込まれた(事件に巻き込んだ)人間の模様が当事者達の記録によって明らかにされていく。
筆者は一貫して「赤穂浪士」「赤穂事件」と総括的に表現しているところに、文学的・文芸的「忠臣蔵」像、人間像には一線を画している。そこに、筆者の立場がある。
戦闘場面は、個々の証言を俯瞰的にとらえ直し、わずか二時間ほどの実態を明らかにしようとしているなど、あくまで連続する事件の双方の当人達、裁いた幕閣、等々、さまざまに入り組んだ当事者の「史実の肉声」を解明することに主眼があり、事件の持つ時代性、その後の影響について、また、当事者の証言資料にないことには、筆を及ぼさない、という姿勢からは、まさにジャーナリスト的視点をうまく生かしている。
ちょっと以前の論文だが、現在の新聞、TVのあいまいで世情に(ズバリ!時の権力者に)一律ならえで迎合的な報道姿勢を見事に見抜いていた、とも思えてくる。快哉、快哉。
さて、今、「特定秘密保護法」が施行され、マスコミへの自民党からの圧力が大幅に増す中で行われる今回の総選挙(選挙報道がこれまでの3分の1に激減している、とか)。
果たしてどのような結果になるのか、大いに危惧する。