しばらく休憩して、出発。学校帰りの小学生たちがじろっと見ながら通り過ぎる。ぼんやり休んでいて「暇な」おじいさんだなあ!
・・・。
しばらく進み、二叉に分かれた道を左手に。「平家越え橋」の手前、右手に「平家越」の碑。
平家越
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、遠くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、「平家越」と呼ばれています。
そのようすを描いたレリーフが右側に刻まれてある。
源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立ち敗走したという故事にちなんで、「和田川」のほとりに1924年(大正13年)に平家越の碑が建てられた、そうだ。
現在の富士川はここより西の方にある流れになっている。当時、この付近は富士川の氾濫原だったのかもしれない。
《平家物語》本文
さる程に、十月二十三日にもなりぬ。明日は源平富士川にて矢合と定めたりけるに、夜に入って平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、
「あなおびただし源氏の陣の遠火の多さよ。げにもまことに野も山も海も川も、みな敵でありけり。いかがせん。」
とぞ慌てける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風、雷などの様に聞こえければ、平家の兵ども、
「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつる様に、定めて搦手もまはるらむ。とりこめられてはかなふまじ。ここをば退いて尾張河洲俣を防げや」
とて、とる物もとりあへず、我先にとぞ落ちゆきける。あまりに慌てさはいで、弓とるものは矢を知らず、矢をとるものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳すれば、杭をめぐること限りなし。近き宿々より迎へ取つて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。
明くる二十四日卯刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、ときをぞ三ヶ度作りける。
(より)
注:上に引用の『平家物語』ではこの出来事を「10月23日」としているが、「平家越」碑の前の説明板では10月20日としてあるのは、『吾妻鏡』記載の日付による。
「碑」の脇には、道標が3つ。
左右の道標は古そうだが、真ん中のものは、距離が粁(キロメートル)で表示されていて、比較的新しい。
この辺りから望む富士山もすばらしいと思うが、残念! 雲の向こう。こちらは雲一つ無く晴れているのに・・・。
しばらく進むと、「吉原宿東」との表示。
この辺りから吉原宿に入る。
岳南電車「吉原本町」駅。 踏切を通過する電車。
ついでにローカル路線の「岳南電車」について。
岳南電車
《歴史》
吉原は東海道の宿場町であったが、東海道本線は町の近くを通らず、町外れに鈴川駅(現吉原駅)が設置されただけであった。戦後になって、鈴川駅と吉原の中心部とを結ぶ鉄道として開業した。鈴川 - 旧左富士信号所間は、戦前に敷設された日産重工業(現日産自動車)の専用鉄道を利用した。
第二期工事として、旧左富士信号所付近から国鉄の身延線入山瀬駅までを結ぶ案、岳南江尾駅から沼津方面への延伸も計画されていたが、資金難で中止され、事業免許も後に失効した。
貨物輸送全盛期には、引込線や専用線の総延長が本線の総延長を上回っていたという逸話もある。しかしながら、2011年1月に日本貨物鉄道(JR貨物)の合理化により2012年春以降の貨物輸送の休止が通告され、3月16日限りで岳南鉄道を支えていた貨物列車の運行を終了し、貨物の取り扱いを廃止した。
これを受けて岳南鉄道は、2011年12月16日に富士市公共交通協議会に対して、貨物列車の運行の終了による採算の悪化から、今後の運行継続が困難であるとの申し出を行った。これに対して、富士市の鈴木尚市長は2012年8月3日の午前中に行われた定例会見で2014年度までの公的支援を行うことを表明した。同年度以降については、収支改善の見通しや、利用状況、市民の意見などから総合的に判断するとされた。
岳南鉄道はその後、2013年4月1日より鉄道路線の運営を子会社の岳南電車株式会社に移管している。
《年表》
1936年(昭和11年) 日産重工業専用鉄道の使用開始。
1948年(昭和23年) 岳南鉄道設立。
1949年(昭和24年) 鈴川駅(現・吉原駅) - 吉原本町駅間が開業。
1950年(昭和25年) 吉原本町駅 - 吉原駅(現・本吉原駅)間が開業。
1951年(昭和26年) 吉原駅 - 岳南富士岡駅間が開業。
1953年(昭和28年) 岳南富士岡駅 - 岳南江尾駅間が開業。
1956年(昭和31年) 鈴川駅を吉原駅に、吉原駅を本吉原駅に改称。
・・・
2012年(平成24年) 貨物列車の運行廃止。
2013年(平成25年) 路線の運営を岳南電車に移管。
《駅一覧》
吉原駅 -ジヤトコ前(ジヤトコ一地区前)-吉原本町 - 本吉原 - 岳南原田 - 比奈 - 岳南富士岡 - 須津 -神谷 - 岳南江尾
はたしていつまで運行できるのか。廃線となれば、その時にはまた来てみるかな(ちょっと不謹慎な感想)。
駅前の案内板。
富士市内の東海道案内図。
吉原宿案内図。
「吉原宿」は本陣二軒、脇本陣四軒、さらに百軒を超す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。
現状は、商店が閉まっていて、シャッター通り化しているように思えた。かつての賑わいはなくなったのか、平日の昼間とはいえ、さびしい商店街になっている印象。毎週、水曜日が商店街の一斉休業日になっているのかもしれないが、それにしても・・・。
アーケード街を進む。「貸店舗」の張り紙も目立つ。
脇本陣跡(ノグチカメラ店)付近。
この他、大通りを挟んで「本陣」「脇本陣」「問屋場」などの跡が続くが、それらの表示は、足元の歩道にはめ込まれていたらしく、上や脇を見ながら通ったため、まったく気づかずに通り過ぎてしまった。
「明治天皇小休所 高砂館跡」碑。
その先の左手には、「鯛屋旅館」。
ご挨拶
日本の心の故郷、霊峰富士の山懐に抱かれた富士の老舗、鯛屋旅館です。
創業は天和2年(1,682年)より330年以上もの間、当時の場所で営業しております。
また世紀の大親分の清水次郎長、幕末の偉人の一人である山岡鉄舟の常宿としても知られております。
旅館の続き隣には手打ちそば・うどんの店「本手打 鯛屋」もあります。
ビジネスに、ご休憩に、お気軽にお立ち寄りいただけるお宿として、皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。
歴史のある旅館へどうぞお越しください。
(以下、HPより)
あいさつ。
「吉原宿の歴史」。
「館内の案内図」。
時間があれば、ぜひ立ち寄ってじっくり見学したいところ。お蕎麦も食べて。
そのまま、商店街を進むと、左手のところに、標柱「東海道400年記念 東海道吉原宿」。
ここを左に曲がる。右の柱には説明文が記されている。
「東海道・大宮街道道しるべ」
現在、富士市の中央部に位置している吉原宿は、東海道14番目の宿場であっただけでなく、大宮街道、根方街道、十里木街道などのいくつかの街道の起点となる交通の要衝でしたので、周辺には、通行する人々の目印となる道しるべが建てられていました。
明治23年(1890)に大宮街道の大改修を記念して、東海道と大宮街道の分かれ道に、この道しるべの元となる石碑が建てられました。その後、移設され、現在は市立博物館に隣接する広見公園内に建っています。
この道しるべは、平成13年(2001)「東海道400年祭」の開催を記念して復元されたものを、この地に改めて設置したものである。
ここでいう「大宮」とは「富士宮・浅間大社」。「大宮街道」を行くと、「富士宮」市内へ。
「十里木街道の起点」とあるが、「十里木街道」は、富士川河口の東北に位置する「富士宮」から「御殿場」を経由して「箱根・足柄峠」付近までの旧街道(「東海道」よりも古い)で、富士山と愛鷹山との間を縫うようにして走る道。現在の国道469号とほぼかぶる道。かつては、国道とは名ばかりの、杉林の中の曲がりくねった狭い道の箇所も多くあったり、農家の庭先を通るようなところもあった! が、今は、広く快適な道路になっている。
したがって、「吉原宿」を起点にしているとは思えない。現在、「吉原」からその国道469号線に合流するには、県道24号線というひたすら北上するルートがある(「十里木」の集落の手前で合流)。
国道469号線は、10年以上前から富士宮方面との行き来で利用している道路。最近は、ダンプカーや物流関係の大型トラックなどが頻繁に通っている。この道路は、御殿場で国道246号線(「厚木街道」。都内に入ると「青山通り」。)と合流している。
「根方街道」は、富士から沼津を経由し三島に通じる道。現在の東海道の北側にあって、古い街道の一つ。県道22号線とほぼ重なるルート。
突き当たりを右に曲がる。目印の石柱。
商店街から離れた道筋。何軒か、雰囲気のよさそうな和菓子屋さんが。
隠れ河原のかりん糖「和田屋」。 だんご処「たむら屋」。
振り返って宿内を望む。
しばらく進むと、「西木戸跡」。
来た道を振り返る。
この川(「潤井川」の支流・小潤井川)を越えると、次の宿場(15番目「蒲原」)までの長い道中となる。