翌6月19日(日)。曇り、時々晴れ。昨日よりは歩きやすい感じ。(9:30)雀宮駅に降り立ちます。
この下り線ホームにも「鐵道院」の鋳物製の鉄柱があります。そこには解説板も。
雀宮駅旧跨(こ)線橋の柱について
この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたもので、合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
旧道(国道4号線)に戻って右折すると、「雀宮神社」があります。
ここで「雀宮(神社)」という地名の語源について。(より)
。
『雀宮南小学校50周年記念誌』『雀宮の地名の由来」(吉野益太郎氏執筆)より抜粋
なるほどさまざまないわれがあるようです。いずれも興味深い説。
中でも、「紅雀」説は、物語性があって、なかなかのすぐれもの。
光源氏だとされる藤原実方朝臣の話で、都にて女性のことで騒ぎを起こした科により青森の地に国造として単身赴任を命ぜられた。彼の若妻が後を慕って雀の宮の地まで来たが風邪がもとで寝ついて、もはやこれまでと村の女房たちを集め「私は陸奥の国造藤原実方朝臣の奥方です。私はここまで来ましたが、病が重くもう死ぬでしょう。心惜しいのですが実方朝臣が来たならばこの藤原氏に伝わる三種の神器をぜひ渡して欲しい」と言い切ると息を引き取った。これを知らぬ実方朝臣は国実検の途路、落馬して死んでしまった。実方は死して紅雀となり雀の宮まで飛来して奥方の埋葬されている綾女塚の上に来て息絶えた。あまりの悲しい物語のため墳頂に綾女神社として祀り供養し、現在は雀宮神社境内に移されている。
藤原実方は「三十六歌仙」の一人で、その歌は「小倉百人一首」にも入っています。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)
この場合も「雀」になっているようで、やはり「雀宮」にはご縁があるわけです。
(9:44)その先がちょうど「東京から100㎞」ポスト。
「国道121号線」との立体交差を過ぎると、左手に富士重工の工場。その先が「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」(10:07)。正門からぞろぞろ親子連れが入場しています。イベントがあるようです。
(10:34)しばらく進むと、右側にJR宇都宮線の線路が近づいてきます。その脇の停留所名が「一里」。この付近に日本橋から26里目の「江曽島一里塚」があったようです。
踏切の名称も「一里踏切」。
(10:44)「東京から104㎞」ポスト。
この付近から「国道4号線」の道路幅がかなり広くなります。
(10:50)「西原」の交差点。ここまで辿ってきた「国道4号線」ともおわかれです。国道4号線は大きく右に曲がって続いていきます。
左に進む道が「日光街道」になります。
「国道119号線」を「東京街道」と表示。 振り返って望む。
「宇都宮宿」に向かって進みます。
JR日光線。
しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。
ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。
宇都宮宿
日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
(以上、「Wikipedia」参照。)
東武宇都宮線のガードをくぐります。
ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。
この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。
「蓬莱大黒通り」。
道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。
更に材木町通りとなります。「宇都宮城址」は右手奥の方になります。
少し賑やかになってきて、「宇都宮地方裁判所」前で、大通り(国道119号線)に突き当たります。この辺りは伝馬町といって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。
裁判所の前を右に曲がり、今度はすぐ左に曲がります。(11:46)ここが日光街道と奥州街道の追分(分岐)でした。
日光街道と奥州街道の追分
江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。
「バス停・伝馬町」。
この付近に本陣があったようですが、確認出来ません。「高札場跡」の案内板があります。
これから歩む「日光街道」を望む。
「本郷町」解説板。
古い商家風のおうちがちらほらあります。
(12:02)日光道中宇都宮宿追分一里塚 「二十七里」
(12:05)「蒲生君平の墓所」桂林寺。
旧街道筋らしい古いおうちが見られます。
(12:19)しばらく進むと、Y字路になり、そのところに「勝善神」の大きな石碑があります。
勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。
しばらく進むと、先ほど「裁判所前」で分かれた「国道119号線」に再び合流します。
ここからは、日光までほぼこの国道を進むことになります。
(12:36)そろそろ昼食タイム。さて、と。
「讃岐うどん」のお店があります。ここで讃岐はないだろうと思いましたが、なにしろ昨日のお蕎麦屋さんで腹一杯出てきていささか参ったので、ここなら、と。しかし、このお店、チェーン店ではなくやっているお店。舞茸の天ぷら付きのうどんを頼んだらけっこうな量。都内では考えられないボリューム。栃木はなかなかサービス精神が旺盛のようです。
こうして今日も腹一杯食べて、午後の部再開。
(13:26)「日光街道」からは東西に街道が分岐しています。ここは、「長岡街道」。
大谷石でできた蔵造りの立派なおうち。
(13:36)いよいよ前方に並木が見えてきました。ただこの先は、杉ではなく、桜並木となります。
初めは、桜並木が続きます。桜の季節にはみごとな並木道になりそうです。車道と遊歩道が分かれていて、歩道は、一段高いところを進みます。入口付近には派手な衣装屋さん。
大谷石を活かした造りの新旧? のおうち。
木陰がたっぷりある遊歩道。
左手に「文星芸術大学・短大」。
(13:50)大学の正門近くに「上戸祭一里塚」があります。江戸・日本橋から28里目。
街道を挟んで東側にある塚。
車道は一段低いところにあります。
「君島建装」という会社のところで歩道は終わり、車道を歩いて大きな交差点へ。
振り返って望む。
(14:09)「弁天橋」。
今回はここまで。帰りはバスに乗ってJR「宇都宮」駅へ。市街地に入るとけっこうな賑やかな街並みです。
この下り線ホームにも「鐵道院」の鋳物製の鉄柱があります。そこには解説板も。
雀宮駅旧跨(こ)線橋の柱について
この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたもので、合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。
旧道(国道4号線)に戻って右折すると、「雀宮神社」があります。
ここで「雀宮(神社)」という地名の語源について。(より)
。
『雀宮南小学校50周年記念誌』『雀宮の地名の由来」(吉野益太郎氏執筆)より抜粋
なるほどさまざまないわれがあるようです。いずれも興味深い説。
中でも、「紅雀」説は、物語性があって、なかなかのすぐれもの。
光源氏だとされる藤原実方朝臣の話で、都にて女性のことで騒ぎを起こした科により青森の地に国造として単身赴任を命ぜられた。彼の若妻が後を慕って雀の宮の地まで来たが風邪がもとで寝ついて、もはやこれまでと村の女房たちを集め「私は陸奥の国造藤原実方朝臣の奥方です。私はここまで来ましたが、病が重くもう死ぬでしょう。心惜しいのですが実方朝臣が来たならばこの藤原氏に伝わる三種の神器をぜひ渡して欲しい」と言い切ると息を引き取った。これを知らぬ実方朝臣は国実検の途路、落馬して死んでしまった。実方は死して紅雀となり雀の宮まで飛来して奥方の埋葬されている綾女塚の上に来て息絶えた。あまりの悲しい物語のため墳頂に綾女神社として祀り供養し、現在は雀宮神社境内に移されている。
藤原実方は「三十六歌仙」の一人で、その歌は「小倉百人一首」にも入っています。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)
この場合も「雀」になっているようで、やはり「雀宮」にはご縁があるわけです。
(9:44)その先がちょうど「東京から100㎞」ポスト。
「国道121号線」との立体交差を過ぎると、左手に富士重工の工場。その先が「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」(10:07)。正門からぞろぞろ親子連れが入場しています。イベントがあるようです。
(10:34)しばらく進むと、右側にJR宇都宮線の線路が近づいてきます。その脇の停留所名が「一里」。この付近に日本橋から26里目の「江曽島一里塚」があったようです。
踏切の名称も「一里踏切」。
(10:44)「東京から104㎞」ポスト。
この付近から「国道4号線」の道路幅がかなり広くなります。
(10:50)「西原」の交差点。ここまで辿ってきた「国道4号線」ともおわかれです。国道4号線は大きく右に曲がって続いていきます。
左に進む道が「日光街道」になります。
「国道119号線」を「東京街道」と表示。 振り返って望む。
「宇都宮宿」に向かって進みます。
JR日光線。
しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。
ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。
宇都宮宿
日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
(以上、「Wikipedia」参照。)
東武宇都宮線のガードをくぐります。
ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。
この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。
「蓬莱大黒通り」。
道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。
更に材木町通りとなります。「宇都宮城址」は右手奥の方になります。
少し賑やかになってきて、「宇都宮地方裁判所」前で、大通り(国道119号線)に突き当たります。この辺りは伝馬町といって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。
裁判所の前を右に曲がり、今度はすぐ左に曲がります。(11:46)ここが日光街道と奥州街道の追分(分岐)でした。
日光街道と奥州街道の追分
江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。
「バス停・伝馬町」。
この付近に本陣があったようですが、確認出来ません。「高札場跡」の案内板があります。
これから歩む「日光街道」を望む。
「本郷町」解説板。
古い商家風のおうちがちらほらあります。
(12:02)日光道中宇都宮宿追分一里塚 「二十七里」
(12:05)「蒲生君平の墓所」桂林寺。
旧街道筋らしい古いおうちが見られます。
(12:19)しばらく進むと、Y字路になり、そのところに「勝善神」の大きな石碑があります。
勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。
しばらく進むと、先ほど「裁判所前」で分かれた「国道119号線」に再び合流します。
ここからは、日光までほぼこの国道を進むことになります。
(12:36)そろそろ昼食タイム。さて、と。
「讃岐うどん」のお店があります。ここで讃岐はないだろうと思いましたが、なにしろ昨日のお蕎麦屋さんで腹一杯出てきていささか参ったので、ここなら、と。しかし、このお店、チェーン店ではなくやっているお店。舞茸の天ぷら付きのうどんを頼んだらけっこうな量。都内では考えられないボリューム。栃木はなかなかサービス精神が旺盛のようです。
こうして今日も腹一杯食べて、午後の部再開。
(13:26)「日光街道」からは東西に街道が分岐しています。ここは、「長岡街道」。
大谷石でできた蔵造りの立派なおうち。
(13:36)いよいよ前方に並木が見えてきました。ただこの先は、杉ではなく、桜並木となります。
初めは、桜並木が続きます。桜の季節にはみごとな並木道になりそうです。車道と遊歩道が分かれていて、歩道は、一段高いところを進みます。入口付近には派手な衣装屋さん。
大谷石を活かした造りの新旧? のおうち。
木陰がたっぷりある遊歩道。
左手に「文星芸術大学・短大」。
(13:50)大学の正門近くに「上戸祭一里塚」があります。江戸・日本橋から28里目。
街道を挟んで東側にある塚。
車道は一段低いところにあります。
「君島建装」という会社のところで歩道は終わり、車道を歩いて大きな交差点へ。
振り返って望む。
(14:09)「弁天橋」。
今回はここまで。帰りはバスに乗ってJR「宇都宮」駅へ。市街地に入るとけっこうな賑やかな街並みです。