杉並木。
車の行き来が激しい国道。その左側、小高いところに街道に沿った細い遊歩道があります。その道を歩くことになります。杉並木の下を歩くことは出来ませんが、安心して歩けるのが一番。ただ、けっこう夏草に覆われていて、足下が不如意なところもあります。

左手が時々開け、田んぼや山々が。
杉並木の下を通過する「例幣使街道(国道)」を下に望む。
時々街道に降りて雰囲気を味わう。

振り返る。木洩れ日が。
街道のすぐ右側をJR日光線が通っています。木の間を通過中の電車。
(15:32)しばらく進むと、路傍には、朽ちて根元から倒れてしまった「一里塚」碑。

小倉一里塚跡
倉賀野宿からの「例幣使街道」歩きで、はじめて「一里塚(跡)」に出会います。他はすでに失われているようです。
「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十六里」と書かれていますが、実際の里程は異なり、29里目らしい。
(注:「壬生道」と「例幣使街道」とが合流するかなり前、「壬生道」に25里目となる「北赤塚一里塚」がある。その一里塚からここまでは相当の距離がある。このかんの一里塚は現存していない。そのため、現在残されている塚の順番で「26里」と表記したのではないか。)
この先も2ヶ所、一里塚(跡)が残されています。江戸時代からしっかり保護されてきた日光杉並木の中だからなのでしょう。
右側の塚ははっきり確認できます。

左の塚は、今、歩いている歩道のために切り崩されてしまったのか。
しだいに木の間越しに家が見えてきます。「文挾(ふばさみ)」宿にさしかかってきたようです。


(15:44)右手にJR「文挟」駅。
注:JRの駅名は「文挟」、宿名は「文挾」と旧字体。
文挾の地名の由来
文挾の地名については、江戸時代以前の中世からすでに記されています。文(手紙)の受け渡し場所との由来がありますが、定かではありません。
確実な資料は存在しませんが、戦国時代には、『日光山往古社領六拾六郷』のひとつ文挾郷として、随仙坊の所領であったと記されています。
(参考:日光山常行三昧堂新造大過去帳)
文挾宿
文挾宿のおこりですが、元和2(1616)年4月17日に徳川家康が死去し、元和3(1617)年3月に日光山に東照社(後の東照宮)が竣工されました。このときの資材の輸送路として使われた日光道中壬生通りが日光への街道として整備されたとき、文挾宿としての家並みが整えられたといわれています。
天保14(1843)年の『壬生通宿村台帳』によると、江戸から29里32町余(約120㎞)、32軒、人数156人、本陣1軒(建坪82坪、玄関付、門構えなし)、脇本陣2軒(建坪63坪、玄関付、門構えなし・建坪99坪、玄関付、門構えなし)、旅籠屋14軒(大5、中5、小4)、宿内町並み3町14間(約350m)、宿建人馬は、13人・13匹と通常の宿(25人・25匹)より少くなっています。これは、隣の板橋宿との距離が短く、板橋宿と合わせて1宿の扱いとなっていたためです。そのため、文挾宿から板橋宿への継ぎ送りはなく、今市宿と鹿沼宿への継ぎ送りが原則でした。
(参考:杉並木物語、今市のむらの歩み、日光山麓の戦い)
鹿沼御成橋での宇都宮藩と農民一揆の衝突
不安と混乱の渦中に起こったのが農民一揆です。
明治元年、県南の石橋宿問屋役人に対する賃割渡し不当の争いは、従来、幕威をかさに高圧的態度に出ていた宿役人に対して、農民の不満が爆発し、ついに、問屋宅を破壊するという暴挙になりました。
勢いに乗った農民たちは、徒党を組んで雀宮宿に進み、さらに次々と勢力を増して沿道の富豪の家や宿駅問屋を打ちこわし、4月3日には、三千余名の一揆勢が世直しの大旗をたてて、宇都宮の八幡山に集まって気勢をあげました。
宇都宮藩は、約三百名の兵力を繰り出し鎮圧に当たりましたが、一揆勢は北上し、田原村、白沢宿、笹沼、上横倉、徳次郎、古賀志村、武子村を次々と打ちこわしました。
宇都宮藩は鹿沼宿北の御成橋に出陣し、一揆勢と戦闘状態となり、6名の死者と1名の怪我人を出すことになりました。
そして一揆勢は、反転、例幣使街道を北上し、文挾宿に向かうことになりました。
文挾宿本陣襲撃事件
例幣使街道を北上した一揆勢の一部は、玉田村、見野村に行き、村中焼き討ちにすると村人たちを脅かし、勢力を増していきました。
そして、明治元年4月5日ついに御神領文挾宿に突入し、同宿名主の中屋善左衛門宅を打ちこわしました。(建坪八十二坪、玄関附、門構無)
当時の様子は、中屋善左衛門の玄孫に当たる田中義久氏(故人)が、「一揆勢の中には大工や鳶職人などが加わり、敷居や鴨居などの肝心なところを切り離してしまったので、後で修繕することも困難だったと子供のころ、よく聞かされた」と話しています。
(参考:日光山麓の戦い)
(以上「文挾二荒山神社 - 日光例幣使街道文挾宿」
https://fubasami.jimdo.com/bunkazai/HPより)
「文挾交差点」右手にある「回国供養塔」(道標)。
ここから、大谷経由で宇都宮に至る大谷道が分かれています。宝暦12年(1762)に建てられたもので、「右 鹿沼 出流/岩船」「左 大谷 田下/宇津宮」とあります。
「文挾宿」の家並み。
根元から焦げている杉の大木。
「日光ろばたづけ」。
(15:56)宿場のはずれにある「二荒山神社」。神社の脇にある木造の倉。
文挾宿郷倉(社倉)【日光市指定文化財】
江戸時代、飢饉対策として米・麦・粟・稗などを貯蔵するために郷倉が建造されました。山崎闇斎が宋の朱熹による社倉法を紹介し、寛政改革に際し設置が奨励されました。
この郷倉によって慶応年間の凶作時には、板橋・文挾宿等九か村の飢民が119石を拝借し餓死を免れました。間口3間、奥行2間で建坪6坪の建造物です。すべて栗材で建てられていましたが、栗の割木で葺かれていた屋根は大正10(1921)年にトタン板に葺き替えられました。
幕末期、民衆の共同扶助という思想を示す建造物であり、旧日光領内に現存するものでは唯一であります。
(この項、「同」HPより)
東武日光線「下小代」駅まで歩くことにします。
(16:05)路傍に石碑が二基。
左の低い方は最近のもののようで、「岩見重蔵之碑」とあり、右の大きいものはどうやら「聖徳太子」と刻まれています。どういう関係があるのか? この場所に設置されているわけは?
なお、「岩見重蔵」を伝説の剣豪「岩見重太郎」と関連づけている道中記録もあるが、疑わしい。
(16:10)思ったよりも足下の悪い細道を歩いているうちに「下小代」駅へ向かう道とぶつかりました。

今回は、ここまで。左折して駅方向へ。
(16:24)ようやく「下小代」駅。
上りの発車時間に間に合わず。かなり待つことになりそうです。
車の行き来が激しい国道。その左側、小高いところに街道に沿った細い遊歩道があります。その道を歩くことになります。杉並木の下を歩くことは出来ませんが、安心して歩けるのが一番。ただ、けっこう夏草に覆われていて、足下が不如意なところもあります。


左手が時々開け、田んぼや山々が。
杉並木の下を通過する「例幣使街道(国道)」を下に望む。

時々街道に降りて雰囲気を味わう。


振り返る。木洩れ日が。
街道のすぐ右側をJR日光線が通っています。木の間を通過中の電車。

(15:32)しばらく進むと、路傍には、朽ちて根元から倒れてしまった「一里塚」碑。


小倉一里塚跡
倉賀野宿からの「例幣使街道」歩きで、はじめて「一里塚(跡)」に出会います。他はすでに失われているようです。
「江戸日本橋より小山・壬生を経て凡二十六里」と書かれていますが、実際の里程は異なり、29里目らしい。
(注:「壬生道」と「例幣使街道」とが合流するかなり前、「壬生道」に25里目となる「北赤塚一里塚」がある。その一里塚からここまでは相当の距離がある。このかんの一里塚は現存していない。そのため、現在残されている塚の順番で「26里」と表記したのではないか。)
この先も2ヶ所、一里塚(跡)が残されています。江戸時代からしっかり保護されてきた日光杉並木の中だからなのでしょう。
右側の塚ははっきり確認できます。


左の塚は、今、歩いている歩道のために切り崩されてしまったのか。
しだいに木の間越しに家が見えてきます。「文挾(ふばさみ)」宿にさしかかってきたようです。


(15:44)右手にJR「文挟」駅。

注:JRの駅名は「文挟」、宿名は「文挾」と旧字体。
文挾の地名の由来
文挾の地名については、江戸時代以前の中世からすでに記されています。文(手紙)の受け渡し場所との由来がありますが、定かではありません。
確実な資料は存在しませんが、戦国時代には、『日光山往古社領六拾六郷』のひとつ文挾郷として、随仙坊の所領であったと記されています。
(参考:日光山常行三昧堂新造大過去帳)
文挾宿
文挾宿のおこりですが、元和2(1616)年4月17日に徳川家康が死去し、元和3(1617)年3月に日光山に東照社(後の東照宮)が竣工されました。このときの資材の輸送路として使われた日光道中壬生通りが日光への街道として整備されたとき、文挾宿としての家並みが整えられたといわれています。
天保14(1843)年の『壬生通宿村台帳』によると、江戸から29里32町余(約120㎞)、32軒、人数156人、本陣1軒(建坪82坪、玄関付、門構えなし)、脇本陣2軒(建坪63坪、玄関付、門構えなし・建坪99坪、玄関付、門構えなし)、旅籠屋14軒(大5、中5、小4)、宿内町並み3町14間(約350m)、宿建人馬は、13人・13匹と通常の宿(25人・25匹)より少くなっています。これは、隣の板橋宿との距離が短く、板橋宿と合わせて1宿の扱いとなっていたためです。そのため、文挾宿から板橋宿への継ぎ送りはなく、今市宿と鹿沼宿への継ぎ送りが原則でした。
(参考:杉並木物語、今市のむらの歩み、日光山麓の戦い)
鹿沼御成橋での宇都宮藩と農民一揆の衝突
不安と混乱の渦中に起こったのが農民一揆です。
明治元年、県南の石橋宿問屋役人に対する賃割渡し不当の争いは、従来、幕威をかさに高圧的態度に出ていた宿役人に対して、農民の不満が爆発し、ついに、問屋宅を破壊するという暴挙になりました。
勢いに乗った農民たちは、徒党を組んで雀宮宿に進み、さらに次々と勢力を増して沿道の富豪の家や宿駅問屋を打ちこわし、4月3日には、三千余名の一揆勢が世直しの大旗をたてて、宇都宮の八幡山に集まって気勢をあげました。
宇都宮藩は、約三百名の兵力を繰り出し鎮圧に当たりましたが、一揆勢は北上し、田原村、白沢宿、笹沼、上横倉、徳次郎、古賀志村、武子村を次々と打ちこわしました。
宇都宮藩は鹿沼宿北の御成橋に出陣し、一揆勢と戦闘状態となり、6名の死者と1名の怪我人を出すことになりました。
そして一揆勢は、反転、例幣使街道を北上し、文挾宿に向かうことになりました。
文挾宿本陣襲撃事件
例幣使街道を北上した一揆勢の一部は、玉田村、見野村に行き、村中焼き討ちにすると村人たちを脅かし、勢力を増していきました。
そして、明治元年4月5日ついに御神領文挾宿に突入し、同宿名主の中屋善左衛門宅を打ちこわしました。(建坪八十二坪、玄関附、門構無)
当時の様子は、中屋善左衛門の玄孫に当たる田中義久氏(故人)が、「一揆勢の中には大工や鳶職人などが加わり、敷居や鴨居などの肝心なところを切り離してしまったので、後で修繕することも困難だったと子供のころ、よく聞かされた」と話しています。
(参考:日光山麓の戦い)
(以上「文挾二荒山神社 - 日光例幣使街道文挾宿」


ここから、大谷経由で宇都宮に至る大谷道が分かれています。宝暦12年(1762)に建てられたもので、「右 鹿沼 出流/岩船」「左 大谷 田下/宇津宮」とあります。

根元から焦げている杉の大木。


(15:56)宿場のはずれにある「二荒山神社」。神社の脇にある木造の倉。

文挾宿郷倉(社倉)【日光市指定文化財】
江戸時代、飢饉対策として米・麦・粟・稗などを貯蔵するために郷倉が建造されました。山崎闇斎が宋の朱熹による社倉法を紹介し、寛政改革に際し設置が奨励されました。
この郷倉によって慶応年間の凶作時には、板橋・文挾宿等九か村の飢民が119石を拝借し餓死を免れました。間口3間、奥行2間で建坪6坪の建造物です。すべて栗材で建てられていましたが、栗の割木で葺かれていた屋根は大正10(1921)年にトタン板に葺き替えられました。
幕末期、民衆の共同扶助という思想を示す建造物であり、旧日光領内に現存するものでは唯一であります。
(この項、「同」HPより)


左の低い方は最近のもののようで、「岩見重蔵之碑」とあり、右の大きいものはどうやら「聖徳太子」と刻まれています。どういう関係があるのか? この場所に設置されているわけは?
なお、「岩見重蔵」を伝説の剣豪「岩見重太郎」と関連づけている道中記録もあるが、疑わしい。
(16:10)思ったよりも足下の悪い細道を歩いているうちに「下小代」駅へ向かう道とぶつかりました。


今回は、ここまで。左折して駅方向へ。

(16:24)ようやく「下小代」駅。

上りの発車時間に間に合わず。かなり待つことになりそうです。