(11:23)「壬生通(道)」の名のもととなった壬生宿(町)へ。
壮大なおうち。沿道にはこういう建物が目に付きます。
「東武宇都宮線」の踏切を越えます。
振り返ると、電車が壬生駅方向へ。
その先、左から来る道は「栃木道」。
「壬生交番」の前で右折します。
(11:35)さらに「壬生駅入口」交差点を左折します。
「蘭学通り」となり、宿場らしい直線の道筋に。
すぐ右手に堂々たる門構えの「松本内科医院」。
「本陣」と見まがうようなつくり。
注:壬生宿の副本陣は「松本家」が勤めていたようです。
「下野近代医学発祥の地 蘭學通り」解説板。
壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭學通り」と命名したものです。
わが街 空から
先端医学幕末に実践
2014年10月25日 05時00分
蘭学通り (壬生町)
壬生町役場の西側、国道352号交差点から壬生駅前交差点までの県道約1キロを「蘭学通り」という。今は老舗の理容店や菓子店などが軒を連ねるが、幕末には国内有数の蘭学者が集い、「医学の街」として栄えた。通り沿いには蘭学者の息吹を伝える史跡も多く、町が20年ほど前に名づけた。
壬生と蘭学との関わりは1801年、蘭学医の斎藤玄正が壬生藩のお抱え医になったことに始まる。玄正の嫡子・玄昌が学問塾「勝怠(しょうたい)堂」を開き、門人を育成した。玄昌はさらに、藩主の鳥居忠挙(ただひろ)の支援を得て、当時ご法度だった人体解剖や、天然痘予防の牛痘ワクチン接種を県内で初めて実施。蘭学研究の機運がいっそう高まった。
通りの北西側にある常楽寺には鳥居家と斎藤家の墓が並び、壬生の発展を見守り続ける。常楽寺から路地を抜けて通りに出れば、勝怠堂跡にぶつかる。そこから南下すると見えてくる蔵造りの長屋は、玄昌とともに藩医を務めた石崎正達の生家。長屋の裏では、子孫が「石崎眼科」を開業している。
町は蘭学で街おこしをしようと、電線地中化など通りの整備を進めてきた。石崎家の長屋は改装して観光客の休憩所とし、長屋の向かいには壬生の歴史を紹介する「自成館」を建てた。自成とは、「おいしい実や美しい花をつける桃やスモモの木の下には、自然と人が集い小道ができる」という古いことわざの一部。壬生藩の江戸藩邸にあった藩校「自成堂」にちなんだ。
「蘭学通り」の名づけ親で、壬生の医学史を20年以上研究している町立歴史民俗資料館の中野正人学芸員(55)は「自成の言葉通り、奥深い歴史と美しい街並みに魅せられ多くの人が集まる街」と胸を張る。「壬生がいかに先進的な医学を導入していたか、研究が進むごとに分かってきました。詳しく知りたい方はぜひ資料館にも足を運んでください」
壬生藩で蘭学が発展した要因の一つに、徹底した論語教育がある。1713年、時の藩主・鳥居忠英ただてるは県内初の藩校「学習館」を開学。論語の素読を教育の柱に据えた。蘭学の本は全て漢文に翻訳されており、その理解には論語で培われた漢文読解力が不可欠だったのだ。
町は蘭学による街おこしと並び、論語教育を現代に復活させる活動も展開している。2009年から町内の小中学校に資料館の学芸員が出向き、論語の素読を教えている。学習館開学300周年の昨年には、町民1000人の大朗誦(ろうしょう)会を開き、大人から幼稚園児に至るまで論語を浸透させた。
論語から100章句を選んで壬生藩伝統の読みと解釈を加えた副読本も今春にまとめた。朝学習などでの素読用に全小中学生に配布し、毎週末に開く大人向けの素読会でも活用している。
蘭学通り沿いで化粧品店を営む石川一郎さん(64)は、副読本をポケットサイズに作り替えて持ち歩いている。「友人や観光客にいつでも壬生のことが話せるように、手放せません」と語る。
(「2014年10月25日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun」HPより)
「増田輪業」さんとその奥一帯が「本陣」跡とのこと。
左手一帯が「壬生城」跡。
壬生城は室町時代に壬生氏によって築城された平城。壬生氏は秀吉の小田原攻めで北条方に加わり滅亡し、家康の関東入封後は、一時結城秀康が城主となり、その後、江戸中期に鳥居氏が城主となって幕末まで続きました。
古い家並みが残っています。
南方向を振り返って望む。
「淀川肥料店」。
筋違え道。あえて十字路にしない。
文字通りの「長屋門」。お店が連なっています。
「美しいまち賞」受賞にあたり
この壬生蘭学通りは、・・・通学路の歩道整備と商店街の活性化を目的に電線類地中化工事が計画され、平成6年から平成14年にかけて総延長780㍍の工事が完了しました。
壬生町は古くから城下町として栄え、社寺や医者が多いと言われ、特にこの整備された通りには、明治初期の地図や文献を見ると
「神戸 察」「渡辺元良」「匂坂玄皐」「齋藤玄昌」「石崎鼎吾」「五十嵐順知」「渡辺百」「若井武一郎」の名前が確認でき、幕末から維新にかけて開業医たちが活躍していたため蘭学通りと呼ばれています。・・・
向かいには藩校の名にちなんだ「自成堂」。
「興光寺」。
・・・慶安4年(1651年)徳川大献院殿の御尊骸日光山へ入御の砌、当寺で通夜が勤められ、この時幕府より「葵」の紋が贈られ、三代将軍家光公ご位牌を安置す。・・・
どこか食事を、できたらお蕎麦でもと探しながら歩きますが、沿道には見当たらず。ベンチでコンビニで買っていたおにぎりを食べます。
(12:00)この先、「国道354号線」との交差点「大師町南」で左折します。
「壬生宿」の今昔。今も昔も、ほぼ南北に一直線。
1880年代のようす。↑が宇都宮・石橋への道。 2010年代のようす。現在は「国道352号線」。
壮大なおうち。沿道にはこういう建物が目に付きます。
「東武宇都宮線」の踏切を越えます。
振り返ると、電車が壬生駅方向へ。
その先、左から来る道は「栃木道」。
「壬生交番」の前で右折します。
(11:35)さらに「壬生駅入口」交差点を左折します。
「蘭学通り」となり、宿場らしい直線の道筋に。
すぐ右手に堂々たる門構えの「松本内科医院」。
「本陣」と見まがうようなつくり。
注:壬生宿の副本陣は「松本家」が勤めていたようです。
「下野近代医学発祥の地 蘭學通り」解説板。
壬生町の大通り(正式名:日光道中壬生通)は、実学を奨励した壬生藩主鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出したことにちなんで「蘭學通り」と命名したものです。
わが街 空から
先端医学幕末に実践
2014年10月25日 05時00分
蘭学通り (壬生町)
壬生町役場の西側、国道352号交差点から壬生駅前交差点までの県道約1キロを「蘭学通り」という。今は老舗の理容店や菓子店などが軒を連ねるが、幕末には国内有数の蘭学者が集い、「医学の街」として栄えた。通り沿いには蘭学者の息吹を伝える史跡も多く、町が20年ほど前に名づけた。
壬生と蘭学との関わりは1801年、蘭学医の斎藤玄正が壬生藩のお抱え医になったことに始まる。玄正の嫡子・玄昌が学問塾「勝怠(しょうたい)堂」を開き、門人を育成した。玄昌はさらに、藩主の鳥居忠挙(ただひろ)の支援を得て、当時ご法度だった人体解剖や、天然痘予防の牛痘ワクチン接種を県内で初めて実施。蘭学研究の機運がいっそう高まった。
通りの北西側にある常楽寺には鳥居家と斎藤家の墓が並び、壬生の発展を見守り続ける。常楽寺から路地を抜けて通りに出れば、勝怠堂跡にぶつかる。そこから南下すると見えてくる蔵造りの長屋は、玄昌とともに藩医を務めた石崎正達の生家。長屋の裏では、子孫が「石崎眼科」を開業している。
町は蘭学で街おこしをしようと、電線地中化など通りの整備を進めてきた。石崎家の長屋は改装して観光客の休憩所とし、長屋の向かいには壬生の歴史を紹介する「自成館」を建てた。自成とは、「おいしい実や美しい花をつける桃やスモモの木の下には、自然と人が集い小道ができる」という古いことわざの一部。壬生藩の江戸藩邸にあった藩校「自成堂」にちなんだ。
「蘭学通り」の名づけ親で、壬生の医学史を20年以上研究している町立歴史民俗資料館の中野正人学芸員(55)は「自成の言葉通り、奥深い歴史と美しい街並みに魅せられ多くの人が集まる街」と胸を張る。「壬生がいかに先進的な医学を導入していたか、研究が進むごとに分かってきました。詳しく知りたい方はぜひ資料館にも足を運んでください」
壬生藩で蘭学が発展した要因の一つに、徹底した論語教育がある。1713年、時の藩主・鳥居忠英ただてるは県内初の藩校「学習館」を開学。論語の素読を教育の柱に据えた。蘭学の本は全て漢文に翻訳されており、その理解には論語で培われた漢文読解力が不可欠だったのだ。
町は蘭学による街おこしと並び、論語教育を現代に復活させる活動も展開している。2009年から町内の小中学校に資料館の学芸員が出向き、論語の素読を教えている。学習館開学300周年の昨年には、町民1000人の大朗誦(ろうしょう)会を開き、大人から幼稚園児に至るまで論語を浸透させた。
論語から100章句を選んで壬生藩伝統の読みと解釈を加えた副読本も今春にまとめた。朝学習などでの素読用に全小中学生に配布し、毎週末に開く大人向けの素読会でも活用している。
蘭学通り沿いで化粧品店を営む石川一郎さん(64)は、副読本をポケットサイズに作り替えて持ち歩いている。「友人や観光客にいつでも壬生のことが話せるように、手放せません」と語る。
(「2014年10月25日 05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun」HPより)
「増田輪業」さんとその奥一帯が「本陣」跡とのこと。
左手一帯が「壬生城」跡。
壬生城は室町時代に壬生氏によって築城された平城。壬生氏は秀吉の小田原攻めで北条方に加わり滅亡し、家康の関東入封後は、一時結城秀康が城主となり、その後、江戸中期に鳥居氏が城主となって幕末まで続きました。
古い家並みが残っています。
南方向を振り返って望む。
「淀川肥料店」。
筋違え道。あえて十字路にしない。
文字通りの「長屋門」。お店が連なっています。
「美しいまち賞」受賞にあたり
この壬生蘭学通りは、・・・通学路の歩道整備と商店街の活性化を目的に電線類地中化工事が計画され、平成6年から平成14年にかけて総延長780㍍の工事が完了しました。
壬生町は古くから城下町として栄え、社寺や医者が多いと言われ、特にこの整備された通りには、明治初期の地図や文献を見ると
「神戸 察」「渡辺元良」「匂坂玄皐」「齋藤玄昌」「石崎鼎吾」「五十嵐順知」「渡辺百」「若井武一郎」の名前が確認でき、幕末から維新にかけて開業医たちが活躍していたため蘭学通りと呼ばれています。・・・
向かいには藩校の名にちなんだ「自成堂」。
「興光寺」。
・・・慶安4年(1651年)徳川大献院殿の御尊骸日光山へ入御の砌、当寺で通夜が勤められ、この時幕府より「葵」の紋が贈られ、三代将軍家光公ご位牌を安置す。・・・
どこか食事を、できたらお蕎麦でもと探しながら歩きますが、沿道には見当たらず。ベンチでコンビニで買っていたおにぎりを食べます。
(12:00)この先、「国道354号線」との交差点「大師町南」で左折します。
「壬生宿」の今昔。今も昔も、ほぼ南北に一直線。
1880年代のようす。↑が宇都宮・石橋への道。 2010年代のようす。現在は「国道352号線」。