
「飯塚一里塚」からしばらく進んで右手に入ると「伝・紫式部の墓」さらに北側には「天平の丘公園」が広がっていますが、そこへ行く道を通りすぎてしまい、「下野国分寺」跡のみ行くことが出来ました。この周囲には史跡が多く点在し、けっこう散策を楽しめるところのようです!
実際には「国分寺」跡をもっと東に進めばよかったのですが・・・。
そこで

全周コース(徒歩約4.5時間、10km)
しもつけ風土記の丘資料館→伝紫式部の墓→琵琶塚古墳→摩利支天塚古墳→下野国分尼寺跡→下野国分寺跡→愛宕塚古墳→丸塚古墳→国分寺薬師堂→しもつけ風土記の丘資料館




・・・
「伝紫式部の墓」とされる五輪塔は鎌倉時代のもので、このあたりの地名が 『紫』 という地名であったので、いつの頃からか紫式部の墓といわれるようになった、とか。
また、公園内には「万葉植物園」があり、万葉集にちなんだ樹木・植物が植えられているそうです。
たとえば、「あかね」

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
大海人皇子(おおあまのおうじ)が蒲生野で狩りをしたときの宴席で、額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌。額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚をして一女をもうけていましたが、この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、天智天皇(中大兄皇子。大海人皇子の兄)と恋人関係にありました。
この歌に対して、大海人皇子は返歌をします。それが
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも
という歌で、この歌も有名。
注:「あかね」は「あかねさす」という風に用いられ、「紫」「日」「月」「照る」「昼」にかかる枕詞。
また、公園内には「明日香川」と名付けられた水辺があり、万葉学者犬養孝さんの筆による、万葉仮名で表記された防人歌の歌碑がある、とのこと。
物部真嶋
松の木の 並みたる見れば 家人(いはびと)の我れを見送ると 立たりしもころ
後日、訪問してみようと思いますが、車以外だと、JR宇都宮線「小金井」駅から歩くしかないようです。
さて、「下野国分寺跡」には「県道(壬生道)」から「ラブホテル」脇の道を入っていきます。

「南大門」から「中門」。その奥、正面に「金堂」、右手に「七重塔」。さらに「講堂」、「経蔵」、「鐘楼」。最奥には「僧坊」と壮大な伽藍を有した寺院でした。


奥が塔の位置。「七重塔」が建っていたようです。




金堂とは
・本尊をまつる寺院の中でも中心的な建物。
中央須弥壇に本尊の釈迦如来像、脇侍菩薩二体、四方に四天王像を配置していたと考えられます。
・下野国分寺ではすべての建物の中で最初に建造されました。
構造
凝灰岩製壇上積基壇・一重・寄せ棟造り
基壇規模
東西33.6m(112尺)・南北21m(70尺)


「金堂」跡から南を望む。

すぐ西にある「甲塚古墳」。円墳形式。

(10:18)街道に戻ってしばらく行くと、「下野市」の標示が。

沿道の所々には大きな樹木があります。かつての並木の名残り。


「花見ヶ岡」交差点。

この地名の由来となった、親鸞の大蛇退治ゆかりの「蓮華寺」が左手奥にあります。


見事というか風変わりな巨木が左右に。


「黒川」を「御成橋」で渡ります。


注:「御成橋」
「例幣使街道」で鹿沼宿を過ぎ、「黒川」を渡るときに架かっていた橋が「御成橋」。江戸・本郷からの「日光御成街道」もそうですが、徳川歴代将軍などの「日光社参」に関わる橋の名称のようですが、天皇の行幸などの際にも名付けられた橋の名としても全国各地に存在しています。
壬生の街中に入って行きます。


(11:16)しばらく進むと、「壬生一里塚」。



・・・壬生の一里塚は、「日光道中壬生通」に設けられた一里塚の一つで、日本橋から数えて23里目(約96㎞)にあたります。
壬生通は日光道中と小山の喜沢で西に分かれ、壬生・鹿沼・今市を経て、今市において再び日光道中に合流する街道です。壬生の一里塚は、この地が壬生城の入り口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例としたといいます。
左塚のみ残っています。右塚は住宅地の一角に。
