おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成上野駅~青砥駅。その1。京成上野駅。上野のお山の散歩。お化け燈籠。野口英世像。

2020-06-03 20:07:06 | 沿線歩き

    5月24日(日)。晴れ。外国人観光客用の宣伝も、心なしか元気なさそうな日曜日の午前。

 今回は京成上野駅から青砥駅まで。「京成本線」。

 京成上野→日暮里→新三河島→町屋→千住大橋→関屋→堀切菖蒲園→お花茶屋→青砥

 上野と日暮里の間には、廃駅となった「博物館動物園、「寛永寺坂」がありました。その現状も含めて。

暑い一日でした。しかし、自粛解除前のため、上野公園は、動物園も博物館も閉鎖されていて、ほとんど人出もなく、親子連れや散歩する地元の方などが目立ちます。こういう人通りの少なさは、今後、滅多にないでしょう。

京成上野駅 

 京成は都心側ターミナルとして上野乗り入れの免許を持っていた筑波高速度電気鉄道を買収し、その免許を利用して当駅へ延伸を行うこととなった。 
 上野公園地下線建設時の条件として、もともと上野恩賜公園が御料地から1924年、当時東京市に払い下げられたものであり、「公園の樹木、特に桜の根を損傷してはならない。寛永寺などの建造物に影響を及ぼしてはならない」などの厳しい条件を付けられた。後年行われた大規模改良工事の時も公園の環境保全には特に注意が払われていた。 
 太平洋戦争末期に陸運統制令による強制収用で当駅 - 日暮里駅間の営業を休止し、下り線を三線軌条化した上で地下線内に国鉄車両を搬入して指令設備などが置かれたが、実際にはあまり使用されなかったようである。また、上野駅構内を軍需工場に転用するための検討が行われ、機材の配置図面作成や条件交渉が行われているうちに終戦を迎えたという。

1929年(昭和4年)2月12日 - 筑波高速度電気鉄道が免許を取得。
1930年(昭和5年)10月15日 - 筑波高速度電気鉄道が京成電気軌道(現・京成電鉄)と合併。
1933年(昭和8年)12月10日 - 「上野公園駅」として開業。
1953年(昭和28年)5月1日 - 「京成上野駅」に改称。
1972年(昭和47年)10月25日 - 「スカイライナー」運行開始に伴う大規模改良工事を開始。
2019年(平成31年)3月19日 - リニューアル工事が完了。

 地上への出入口は、東日本旅客鉄道(JR東日本)上野駅および上野公園(西郷銅像付近)の入口に近い正面口と、池之端口(2か所)の計3か所が存在している。また改札外地下通路を通じ、中央通りを隔てて対面にあるヨドバシカメラ マルチメディア上野店にも、当駅連絡通路としてアメヤ横丁方面出口が設定されており、店内地下1階を経由して連絡している(始発から22時まで)。 
  開業時の駅本屋は、現在の当駅正面口から中央通りを隔てて対面になる位置に建設され、「京成聚楽ビル」「上野京成ビル」等の名称があった。大日本食堂(現:聚楽)の運営する飲食店が入居していたが、戦後は京成電鉄本社として機能し、その後1969年から1977年まで「上野京成ホテル」として使用された。末期にはヨドバシカメラ上野駅前店や飲食店等のテナントが入居し、ビル内の駅出入口も「アメ横口」として残されていたが、老朽化に伴い2006年に解体された。跡地にはヨドバシカメラのビルが建設され、ヨドバシカメラ マルチメディア上野店となっている。上野中央通り地下通路が完成してからは、同通路を通じてビル地下1階に連絡している。 

(以上、「Wikipedia」参照)

  当時の京成上野駅。地下駅特有の天井が煤けて薄暗く、得体の知れない臭いも漂ってきて、あまり印象がよくありませんでした。帝都営団地下鉄(現東京メトロ)銀座線の駅などもほぼそんなようでしたが。充分な空調設備などはなかった時代だったのでしょう。子供の頃の印象では薄暗く、独特のにおいが漂っていたような。地下道には床屋さんとか飲み屋さんがあった、と。そんな上野駅ですが、今は、外国人観光客の利用者も増えて、こぎれいな駅に様変わりしています。今はまだ、ほとんど外国人の姿は見かけませんが。

 さて、地上に出て、上野公園内を。

緑も濃くなった上野公園。

 京成線は日暮里駅の手前、JR線を越える付近でトンネルから地上に出てきます。それまでは上野の山の地下を抜けていきます。

「しのぶ川」。

                     

 

       小松宮彰仁親王」銅像。

 小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。 
安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867) 勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。 
同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。 ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。 
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。 同15年には、小松宮彰仁親王と改称。 
同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。 
同36年1月18日、58歳で没。 
銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。 
作者は文展審査員の大熊氏廣。
「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

人通りはこの程度。正面は、「国立博物館」。

 ○のところに「京成本線」とある。

この案内板で確認すると、京成線は「寛永寺・お化け燈籠」、上野動物園入り口付近、「都美術館」の脇を抜け、「区立上野中学」前の道路下を走っているようです。

上野駅(地下)方向を望む。

 

                   お化け燈籠」。

 佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の灯籠で、
  奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
  東照大権現御宝前石燈籠
   寛永年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この灯籠を寄進したのである。
 勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北條氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を領した。
 燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.36メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。

上野動物園」。この時は、まだ休園中。

 「初代歌川広重 東都名所上野東叡山全図

少し道をそれて、東側に。

野口英世」像。

野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。明治31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、明治33年(1900)12月に渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。
 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩武術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定した。
 昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
 なお、銅像全面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会が設置したものである。

こちらは「旧奏楽堂」にある「滝廉太郎」像。

「国立科学博物館」。

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