「奥の細道」行程図。
「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」。
千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ
行春や鳥啼き魚の目は泪
是を矢立の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送るなるべし。
『奥の細道』の本文を少し付け加えると、
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
・・・
『奥の細道』の終着は大垣ですが、ここでは、
「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 、
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」
と詠んでいます。
千住と大垣ではそれぞれ、「行く春」と「行く秋」、「船をあがる」と「又舟にのりて」として、始めと終りに対称的な表現にしています。
なお、「行(く)春や」の句は、本文執筆時にここに入れるためにつくられ、初案は「鮎の子の白魚送る別れかな」であったと言われています。魚市場があったことから「鮎の子・白魚」が句中に。
碑の裏面。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著した俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄2年(1689)3月27日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上がり場であった。千住は寛永2年(1625)三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。
街薄暑奥の細道こゝよりす 菖蒲園
注:「街薄暑(まちはくしょ)」=街中が薄暑(初夏の頃の、うっすらと汗ばむほどの暑さ)に包まれていること。夏の季語。芭蕉の旅立ちは弥生。季節が少しずれています。「奥の細道」がここから、という意味で用いた?
「おくのほそ道 旅立ちの地」
川沿いのテラスに下りると、千住にちなんだ解説板が並んでいます。
「千住の大橋と荒川の言い伝え」。
・大橋と大亀
千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。
この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。 千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「・・・・中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。ずっと以前から川の主と言われる大亀が棲んでいて、その棲家が橋の川底にあったので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、苦もなく打ち込めました。しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ、最大の注意を払いここを通り越すとほっとしたそうです。
・大橋と大緋鯉
千住の大橋から十数丁遡った対岸の”榛木山”から下流の鐘ヶ渕にいたる注意木を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。 ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いて立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。 橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲できません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げ去りました。 しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。 その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。
「千住橋戸河岸」。 ・川蒸気の登場 ・架橋と変遷 ・明治43年下町の大水害
初代北斎の画。
「河番付」。「隅田川」は行司役。 「橋番付」。こちらも「千住大橋」は行司役。
初めの千住大橋の橋杭材は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)の材木を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたという根強い言い伝えがある。当時の古い川柳にも
「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」
と詠まれた。実際、流されてしまった後も住民たちが槇の杭を拾い集め、火鉢にしたり、仏像に加工して守り神として祀るなど、半ば伝説化していた。その後の調査によってこの高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認され、前述の千住小橋の橋上から、その遺構を確認することができる。水面に浮かべられたブイが場所を示している。
「千住大橋際御上り場」。将軍家、日光門跡など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際、御上り場である。将軍家が千住近郊の鷹狩場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。
御上り場までの絵図(左上)
絵図によると新大橋(1698年架橋)があって永代橋(1698年架橋)がないので、この5年間に書かれたものと思われる。水路を主に陸路も書かれている。この時代は川の名称が定まっておらず、浅草近辺では浅草川となっている。千住では千住川と呼ばれていた。
千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着くようす
この図は小金原で行われた鹿狩りに向かう将軍が千住に到着するようすを描いた図です。描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。当時の将軍は12代将軍の家慶でした。
「旧記」
住掃部宿の役人、高尾家の由緒書です。千住大橋架橋伝承をはじめとする高尾家の来歴について記されており、千住大橋についての記述もみられます。普請奉行が伊奈備前守忠次、橋杭の槇の「御手伝」として伊達政宗の名前が記されています。
???
富嶽三十六景「従千住花街眺望ノ不二」千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760-1849)は富嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関谷の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いています。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるため、画題の対象地と想定される付近に顕彰碑を建立しました。
位置的には違うようで、ここでいう「花街」とは浅草田圃・新吉原をさす、という説があります。
緻密な描写で日光道中(奥州道中)沿いの景観を描いている。猩々緋(しょうじょうひ)の附袋を被せた鉄砲と毛槍の隊列は国元へ向かう盛岡藩(南部藩)の行列と考えられている。画面奥の塀に囲まれた整然とした家並みは花街、遊郭である。近景の右方向へ進む大名行列、中景に稲刈りも終わった田圃、遠景の花街と富士、この三層をまっすぐに伸びた畦道が結ぶ。その真ん中で休息をとる二人の農婦が面白そうに行列を眺めている。
※山谷(東京都台東区)
…日光道中から、板塀に囲われた新吉原(吉原遊郭)を手前に富士を望む。手前の緑地は遊郭への通路となった日本堤であろう。『江戸切絵図』には、吉原遊郭から北東へ日光道中に直接向かう道があり、図中で女性が座って行列を眺める道と一致する。表題は千住となっているが、隅田川右岸の浅草山谷町付近からの風景と推測される。
(この項、「」HPより)