おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

今を盛りのタチアオイ、咲き始めたアジサイ。そして、満開のツツジ。隅田公園。

2020-06-01 20:37:08 | 隅田川

隅田公園。サクラ、ウメばかりではなく・・・。タチアオイ。

「梅雨葵」とも言われます。

「アオイ(葵)」というと、つい葵の御紋、徳川家の家紋と思ってしまいがちですが、まるで違う植物の葉をデザインしたもの。

 葵紋(あおいもん)はウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもの。

  

 フタバアオイの通常の葉の数は2枚である。3つの葉をもつフタバアオイは稀で、三つ葉葵は架空のものである。葵祭に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵・加茂葵)になっている。 その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。これにより三河武士である徳川家が葵紋を使用していることは、徳川家が清和源氏(河内源氏)系新田氏流世良田氏(得川氏)の末裔ではなく賀茂氏の末裔ではないかとの説の根拠ともなっている。 
 豊臣家が滅んだ後、徳川家康の権威が上がると徳川家使用紋の葵紋は特別な家紋となっていった。家康が征夷大将軍となった後、次第に徳川将軍家以下一門に制限され、他家に使用禁止となったは、享保8年(1723年)。 
 天皇家は足利家、織田信長、豊臣秀吉の例に倣い桐紋を徳川家にも与えようとしたが、徳川家はこれを固辞したため、葵紋の権威が上がったともいわれる。

(この項、「Wikipedia」参照)

アジサイ(紫陽花)は、これからが見所。

     

        

「山の宿の渡し跡」。

山の宿の渡し跡            台東区花川戸1丁目1番
隅田川渡船の一つに,「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。 明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は, 隅田川に船路を描き, 「山ノ宿ノ渡,枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は 吾妻橋上流約250メートル。 浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を, 命名。 別称は, 東岸船着場が 枕橋橋畔にあったのにちなむ。 枕橋は 墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は, 江戸中期ごろから墨堤と呼ばれ, 行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く, 山の宿の渡しは それらの人を墨堤に運んだであろう。したがって, 江戸中期以降の開設とみなせるが, 天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」は この渡しを描いていない。

(明治の古地図「goo」より)

 渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名されたようです。また、「花川戸の渡し」と称されたり、東岸(対岸)の船着場が北十間川・枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも。
 ただgoo提供の明治古地図(年代不明)には、「枕橋の渡し」「山の福の渡し」と表記されています。「福」は「宿」の誤りか。その地図には、少し北の隅田川沿いに「山の宿郵便局」と記載された郵便局があります。 

        

そして満開のツツジ。

出かけたのは、5月28日(木)。もうちょっとアジサイが見頃になったら、梅雨空の下、来てみましょう。

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