京成本線沿いに歩きます。
高砂駅南側の商店街。
線路沿いの道は住宅地。
高架は「北総線」、下に京成本線。
右手に大きな公園。
線路南側一帯に大規模な再開発計画が進んでいます。かつては5階建ての都営住宅がたくさん建ち並んでいたところです。それらが高層アパートに変わり、さらに「Google」でも再開発を待つ空き地が目立ちます。
高砂地区開発協議会(創出用地地区勉強会)の活動について(「葛飾区」HPより)
都営高砂団地では、平成21年から開始された建替え事業により、従来3~4階建て程度だった住棟を10~12階建てに高層化したことから、広大な用地が創出されることとなりました。この建替えに伴い創出される用地(創出用地)を高砂のまちづくりに活かしていくため、創出用地地区勉強会を発足し検討を行っています。
創出用地地区は、平成23年度に高砂地区開発協議会が作成した『高砂駅周辺まちづくり方針』においては、防災性や住環境の向上を図るまちづくりとして「創出用地ゾーン」と位置付けられ、「住宅整備とともに生活基盤となる商業、医療・福祉施設が複合したまち」等と表現されています。
「高砂北公園」。
5年、10年と来ない間にまるっきり様変わり。
空き家になった棟。
店舗なども1階部分にありましたが、すっかりなくなりました。どこに移転したのでしょうか?
再開発を待つ。
この団地には知人も住んでいて、かなり以前、何度か訪問したことがあります。下町色満開の団地風景でしたが、今後はどうなっていくのでしょうか?
1970年代のようす。団地が広がっています。
成田空港に向かう「北総線」が離れていく。
「葛飾区 総合教育センター」。旧明石小学校。
用水路跡の道。
橋名が残っています。「かまくらはし」。
近世の新田村。「新編武蔵」に、「昔相州鎌倉郡ヨリ源右衛門トイヘルモノ。来リテ開發セシユヘ。此名アリト云」と明記されている。また村内から曼荼羅が掘り出されたため、曼荼羅村の別名もあった。
線路の向こうを望む。
○の地点。(「今昔マップ」より)
踏切を渡ります。高砂方向。
踏切右手の一画に。
この辺りは鼎橋跡。青面金剛像は道標になっていて「右面 右江戸みち奥戸渡し迄半道 左面 橋向左矢切渡しみち」。「小合溜」からの引き水路で「大堰枠」で「東用水」と分岐した「小岩用水」に架かっていた橋が「鼎橋」。
鼎の足が3本であることから、3という数を表すことがある。
1880年代のようす。○付近か? 三叉路になっているような印象。
右斜めの道(道標では左)を行くと、柴又方面に進み、左斜め(道標では右)を行くと、奥戸の渡しに着く。
2010年代のようす。位置がすこしずれていますが。
中央左の斜めの道が「小岩用水」。
線路の向こうに続く。
線路脇の解説板。 「小岩用水の沿革」。
小岩用水は、小合溜井(現在の水元公園)を用水源とする上下之割用水の主要分水路です。江戸時代の中期享保14年(1729)、8代将軍徳川吉宗の幕府勘定方であった井沢弥惣兵衛は利根川の旧河道を締め切って小合溜井を設け、中川・上下之割用水を整備しました。 上下之割用水は東葛西領50余村を潤す灌漑用水で、岩槻橋を経て大堰で小岩用水を、新宿村と曲金村境付近で東井堀、さらに細田村と奥戸新田付近で西井堀と中井堀を分流しています。小岩用水は下之割と呼ばれた現在の江戸川区方面への主要用水路でした。 当時の葛西領は上下之割用水と西の葛西用水の2大用水の本・支流が縦横無尽に走る水田地帯で、葛西3万石の米どころとなっていました。また畑地では小松菜などの野菜が作られ、大消費地江戸を支える農村地帯として重要な役割を担っていました。 近代に入って都市化の進行と共にともにこれらの用水路は次第にその役割を減じ、戦後は工場や家庭からの排水が流れ込む排水路となっていきました。昭和39年(1964)4月、葛飾区移管され、その後下水道の完備とともに緑道として整備されて現在に至っています。
南に向かう用水路跡。
「鎌倉かなえ通り」。
「柴又街道」にぶつかります。
「食べログ」で「柴又街道がスイーツ街道な件」として紹介されています。
葛飾区の金町から柴又、江戸川区の小岩と縦断する柴又街道。実は葛飾区や江戸川区を代表するスイーツの名店は柴又街道沿いに揃っています。スイーツに関しては都心に敵わない印象の葛飾区ですが、ご紹介する柴又街道沿いのスイーツ4軒は都心の名店にも負けない魅力を持っています。車で回って食べ比べても損は無し!?
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柴又街道を移動してスイーツ巡りいかがでしょうか?
北から金町の「ラ・ローズ・ジャポネ」、柴又の「い志ゐ」、新柴又の「ビスキュイ」、京成小岩の「ラトリエドゥシュクル」とご紹介しております。都心の一流ホテル出身のパティシエたちが下町葛飾エリアに新風を巻き起こしているのかも知れません…。
左手が「京成小岩駅」方向。
小岩駅ホーム。