「藍染川西通り」。
この「藍染川」通りは一度歩いたことがあります。そのときの投稿を再掲。(2013年9月)
藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」と東京都下水道局HPにありましたから、かなり初期の頃に造られたことが分かります。
今回は、その藍染川通りを日暮里から町屋までたどってみました。すべて暗渠、京成線高架沿いの、ほぼ直線で広い舗装道路となっていて、痕跡はほとんどありません。
ここからスタート。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部?
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。
JR貨物線の踏切を越えると、京成線高架沿いに直線で進みます。
(「今昔マップ」より)
(左図)京成電車がまだなかったころ。↓が暗渠になる前の「藍染川」。
(右図)現在。京成電車は藍染川に沿うように建設されたことが分かります。
町屋駅にかけて、京成線の高架下には小さな工場や商店がありました。それらもすべて撤去されています。
どういう工場だったのでしょうか。「禁煙」の表示や人名が残されています。
工場の名が。
・・・
今回歩くと、ガード下はきれいになり、壁も塗り替えられてかつての名残りはまったくありません。
「こばと商店街」。
「新三河島駅」。
「明治通り」を渡ります。ガード上に「新三河島駅」のホーム。
この先は、「藍染川通り」となります。
来た道を振り返る。
以前と同じうちが健在でした。
「花の木橋」交差点。暗渠になる前は、大きな橋が架かっていたようです。
京成線のガードは今時珍しい印象。 鉄骨の組み合わせが絶妙。
「藍染川通り」に面したトタン葺きの平屋のおうち。
京成「町屋」駅。千代田線や都電荒川線の乗換駅。
都電が通過中、上が京成線。
地域に愛され続ける唯一の都電
都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋~早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが満載です。
東京さくらトラムについて
東京都交通局では、「東京さくらトラム」を都電荒川線の愛称として決定しました。
これまで以上に皆様に愛され、親しんでいただけるよう、都電や沿線の魅力を国内外に広くアピールしていきます。
(この項、「」HPより)
最盛期(1955年頃)には営業キロ約213km、40の運転系統を擁し、一日約175万人が利用する日本最大の路面電車でしたが、モータリゼーションの進展や営団地下鉄、都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していきます。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると、再建策の一環として1972年までに廃止されることになりました。1974年に唯一、荒川線の存続が決定して現在に至ります。
(「Wikipedia」より)
この「荒川線」が存続したのは、 ①三ノ輪橋~早稲田間の9割が道路と分離された専用軌道のため、道路渋滞の影響が少なかったこと ②並行する道路がなくバスによる代替輸送が難しかったこと などから、地元の強い要望を受けて1974(昭和49)年に永久存続が決定しました。元々は2系統の路線を一体化して「荒川線」が誕生しました。
他の路線については、ほとんどの区間が併用軌道(道路上に敷設されている)で、交通渋滞に与える影響が大きく、地下鉄やバス転換が容易であったために廃止されました。
注:荒川線の前身は、「王子電気軌道」という私鉄でした。
線路沿いにバラの花が満開。
一度、「早稲田」から「三ノ輪」まで乗ったことがあります。車窓風景や乗降客のようすなどけっこうな乗り心地でした。今度、沿線を歩くということを企画してみたい。
人種的平等、そしてそれをさがしもとめる人々を、私たちは支持します。(「Google」)