おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成上野駅~青砥駅。その7。「三河島水再生センター」。隅田川。スーパー堤防。大橋(千住の大橋)。河岸。

2020-06-11 19:48:51 | 沿線歩き

              隅田川方向に進みます。

 

「隅田川」に架かる鉄橋。

町屋駅方向を振り返る。

 幾分カーブしているところが「藍染川」流路跡らしく感じます。右手には「荒川自然公園」。この公園は、「三河島水再生センター」の水処理施設の上部空間にあたります。
 「三河島水再生センター」は、1922年(大正11年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場。

 (以下、東京都下水道局HPより)

 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設
 大正11年3月の設立当初から稼働した赤いレンガ造りの喞筒(ポンプ)室は、水再生センターのシンボル的な施設でしたが、平成11年3月に別系統のポンプ施設に切り替え、引退しました。
 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設は、「わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、高い歴史的価値が認められ、また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物が、旧態を保持しつつまとめて残る点も、近代下水処理場喞筒場施設の構造を知る上で貴重である」と評価され、平成19年12月に国の重要文化財(構造物)に指定されました。・・・

 三河島水再生センターの下水処理方法は、散水ろ床法をかわきりに、昭和9年には、パドル式活性汚泥法(鋼製の水車を回転させ空気を取り入れる方法)、昭和34年に散気式標準活性汚泥法を採用し今日に至っています。

 かつては、下水処理システムが開放施設だったため、電車内にも悪臭が漂ってきましたが、現在は、まったくそういうこともなく、上は公園として近隣住民の憩いの場所となっています。

ここで隅田川の堤に出て、「千住大橋」まで回り道をして進みます。                                         遠くに「千住大橋」。

上流方向。京成線の鉄橋が。

 両岸とも堤防の大改修と再開発が進み、高層マンションなどが出来ています。下水道の整備と生活・工業用水の流入もなくなり、川も浄化され、きれいになりました。昭和30年代ころは、ここから下流は、鼻をつく悪臭漂う隅田川でしたが。

 

            

変化する堤防の役割とスーパー堤防整備

・・・東京都は、隅田川など東部低地帯のカミソリ堤防をスーパー堤防に代表される土でできた河川堤防に改築していくことにしました。土の堤防は、大地震にみまわれても大きな損傷を受けることがなく、仮に損傷しても土でできているために応急措置が容易に行えます。さらに、現在のカミソリ堤防を取り除くことができ、人々が河川に身近に接することができるようになります。・・・今回完成した南千住北地区は、河川背後地のマンション建設や周辺道路の整備などの住宅開発事業と一体となって整備することができました。

左岸が「千住大橋駅」付近。

「スーパー堤防」上では親子連れや犬を連れての散策、のんびり自転車、など楽しんでいます。足下には草花が。

                 

京成線の鉄橋上流には、まだカミソリ堤防が残っています。

「カミソリ堤防」の例。―東京今昔物語 (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ )より―

ここで土手を離れ、「千住大橋(大橋)」に向かいます。遠くに「スカイツリー」。

千住の河岸」解説板。

 江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
 材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化2年(1845)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。

 

「千住大橋」=「大橋」。

 最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。 
 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。 
 伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたと言われる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱を使って綱引きをして、吉凶を占う行事があった。 
 架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。 
 千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ。なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。 
 その後、明治19年(1886年)に[1]二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。

(歌川広重作『名所江戸百景』より「千住の大はし」)

(この項、「Wikipedia」参照)

 「千住大橋」碑。

 ”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、30余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。

 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973)、新橋がそえられた。

 昭和59年(1984)3月 東京都

隣に歌川広重作『名所江戸百景』より「千住の大はし」のレリーフ。

 

「親柱」。

 千住大橋の上流側には親柱が一部残されていて、平成17年(2005年)1月に橋全体の塗装補修工事が行われた際に、合わせて親柱の復元改修が行われました。電灯が再設置されるなど架橋当時をできるかぎり復元したものです。

千住大橋は日光街道の出立口。ちなみに、隅田川に架橋されている橋で、「はし」はこの「千住大橋」と「新大橋」の二つ。あとの橋は、「ばし」とにごる。

1880年代のようす。2010年代のようす。

コメント
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