おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その4。古代東海道。伊与田の道標。佐倉街道。

2020-06-26 20:36:58 | 沿線歩き

                 「古代の東海道」東側を望む。「上小岩遺跡通り」。

西側を望む。

環七と新中川にはさまれ、この道沿いにある「葛飾区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。上が南。

 「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。

「上小岩遺跡」解説板。

上小岩遺跡は、区内で最も古く大きな遺跡とされ、現在の北小岩6、7丁目付近と推定されています。この地域はもとの上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡とよんでいます。
 上小岩遺跡は、昭和27年に当時の小岩第五中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査によりこの遺跡が古墳時代前期(今から1600年前)を中心とする低地の集落遺跡であることがわかりました。
 出土品は、弥生時代中期のものが発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。とくにS字状の口縁をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことがうかがえます。          昭和63年3月 江戸川区教育委員会

江戸川駅に向けて進む。

踏切を渡って北側に。北からの緑道と交差。

「上小岩親水緑道」。

この緑道沿いに、この辺りに住んでいた古代人の生活が絵画に描かれています。ただし、古墳、集落跡など定住生活をしていたという遺跡・痕跡がまだ発見されていないそうですので、あくまでも想像の世界。しかし、古代から人々の生活があったことは事実で、「古代東海道」が通っていたのもそういう前史があるからでしょう。

「上小岩親水緑道」について、一度記事にしたことがありますが、この機会に改めて。

 旧佐倉街道が江戸川の土手にぶつかる手前、「水神」と大きく刻まれた石碑は、すぐそばにある「善兵衛樋(ひ)」とかかわりがあります。
 この辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、1878(明治11)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
 この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続いています。とても気分のいい道筋です。京成電車の線路にぶつかるまでの遊歩道です。途中には、ベンチがあったり、草花や木々が植えられ、流れには、魚も泳いでいました。ところどころ、モニュメント風な大きな石組みが無造作に置かれています。
 当時からの通称は、「北小岩川」。下水道の整備に合わせて親水緑道としたそうです。さらに、このあたりでは、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が見つかっているために、古代の歴史をテーマに整備した、とのこと。
 小岩保育園近くには、古墳時代の遺跡の発見にちなみ、当時から江戸時代までのこの付近の人々の生活が絵画で表現されています。そういえば、道の所々に置かれたマンホールには、古墳時代の土器が描かれています。
 静かな住宅の間を抜けるように続く流れに沿った道。かつてのように、近在の水田に水を供給したという面影は全くありませんが、地元の住民の憩い・潤いと今でもなっていることは、すばらしいことです。
 

マンホールの絵柄。

(2009年4月 投稿)

ガード下の画。

 真ん中の画は、「茅の輪くぐり」。カヤで作った大きな輪を八の字にくぐり、災厄をはらう神事。すぐ近くの北野神社(北小岩3丁目)で行われる年中行事。「茅の輪くぐり」は別名「夏越大祓(なごしのおおはらい)」とも言われ、毎年6月30日頃に行われる夏越しの行事。北野神社で使用される「茅の輪」は、直径約2.5メートル。江戸川沿いでカヤの刈り取りを行い、少しずつ束ねながらひとつの輪に仕上げ、境内に設置します。

江戸川駅。

駅前の商店街―佐倉街道(市川街道)。

商店街案内図。

「カフェワカタケ」店先にある「伊与田の道標」。安永4(1775)年建立。

伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいます。

安永4年(1775)建立。銘文は正面に「是よりあさくさくわん世おん(浅草観世音)道、伊与田(伊予田)村中」とあり、側面にはそれぞれ「右舟ばし迄三り(里)、いちかわ道」「左にいしく(新宿)道、いわつきぢおんじ(岩槻慈恩寺)迄七り」と刻まれています。原位置はやや北によった旧観世音道の入口にあり、その後糀屋商店前に移設されて保存されていましたが、平成17年(2005)に現在地へ移設されました。

京成線のガードをくぐる。

「御番所町跡」解説板。
御番所町とは関所前の界隈のことですが、京成江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分を区史跡として登録しています。ここは佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』(1828年成立)の「伊予田村」の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。角屋、筑前屋、清水屋などの旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などがならんでいたと伝えられます。角屋は近年まで同じ場所で旅館を営業していました。江戸川につきあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。
道標は今も原位置にあり、道路の様子も昔をしのばせます。そのほかにも、江戸川の川岸にあった常燈明(宝林寺)や関所役人中根平左衛門代々の合葬墓(本蔵寺)など当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。

この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っています。

正面が元佐倉道(旧千葉街道)。

ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。

 

突き当たりが江戸川の堤。

 

佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹で、坂東三十三観音霊場十二番の札所。

案内板によると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。 
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち 
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 」

小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
 もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
 この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
昭和9年(1934)の江戸川改修に当たり、宝林寺に移されました。

                                     1880年代のようす。元佐倉道と佐倉道と合流し、江戸川を渡る。

                                     2010年代のようす。江戸川の改修で渡しへの道や街並みは、河川敷の中に。

 

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