おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その5。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-13 20:54:30 | 日光千人同心街道
                             「須永家本陣」の「椎の木」。

かつての建物はありませんが、門があって解説板も立っています。

                          

椎の木。根元が太く、樹齢400年とか。
上新郷のシイノキ
 前の道は日光へ参詣するための街道であり、日光脇街道と呼ばれています。また、日光山の火防の任にあたった八王子千人同心が通行した道でもあるため、八王子千人同心道とも呼ばれています。
 当地は新郷宿であり、継ぎ立ては館林から行田へ向かう時のみの片宿場でした。これは脇街道にみられたものです。
 当家は忍藩主の命により本陣を務めていました。このシイノキは推定で400年の樹齢を持ち、高さおおよそ18㍍、幹回りは7.15㍍です。

文化財に関する解説板。
①徳川斉昭の和歌
 市指定文化財「富士山の図」をみて詠んだ和歌です。徳川斉昭(寛政12年-万延元年)は水戸藩の第9代当主で藤田東湖らを登用して藩政改革を行い、将軍は賞讃しましたが、幕府からは急激な改革をきらわれ、謹慎を命ぜられました。その後、情勢の変化により幕政に参与しましたが、将軍のあとつぎの問題で実子の慶喜(のちに15代将軍となる)を推し、井伊直弼らと対立し、安政の大獄で処罰されました。尊皇攘夷派を主導し、桜田門外の変の原因をつくるなど、歴史に大きな足跡を残した人物です。

②佐藤延昌の箱書
 徳川家康の忌日に日光東照宮で行われる4月大祭に、2代将軍秀忠から12代将軍家慶までみずからが計19回も日光に社参しました。最後は天保14年(1843)のもので、総勢14万人にも及びました。このとき、徳川御三家も日光脇街道を通行し日光に参詣しました。徳川斉昭の一行はこの本陣に往きは4月11日に立ち寄り、そこで上記の和歌を詠みました。本陣は、その和歌を入れる箱を作り、4月22日の帰路で再び休憩した際に、従者の佐藤延昌にその由来を書かせたものです。
 
③黒沢翁満の書
 黒沢翁満(寛政7年-安政6年)は、伊勢桑名に生まれ、桑名藩士に仕え、文政6年(1823)の藩主松平忠尭の領地替えに従い、忍藩に移りました。晩年は大坂留守居役となり、同地で没しました。賀茂真淵や本居宣長の学風を学び、国学を研究し様々の書物を著しました。この書は、徳川斉昭の和歌をみて、そのすばらしさに感激して記したものです。

④富士山の図
 地袋に描かれたふすま絵です。詞書きに天保十四年四月八日とあることから、徳川斉昭の寄宿の直前に描かれたもので、これを見た斉昭の心を動かし、和歌を詠ませました。縦20㌢、横40㌢の大きさです。描いたのは晴真です。

 時系列的には④→①→②→③ となります。
この解説文には和歌などの内容が記されていません。そこで、「クニの部屋 -北武蔵の風土記-郷土作家の歴史ハックツ部屋」HPから引用します。

徳川斉昭の和歌 ―川沿いの郷土史(6)―2006年04月13日 | 利根川・荒川の部屋

 天保14年(1843)4月10日、徳川斉昭は日光社参のため江戸の「礫川の邸」を出立。桶川の宿に泊まったあと、新郷宿の本陣に到着したのは正午だった。
 斉昭一行は本陣で休憩を取る。そのとき斉昭の目に映ったのは、地袋に描かれた「富士山の図」だった。
 天保14年4月8日に「晴真」という者が描いた絵で、斉昭らが休憩に立ち寄るのを見越して筆を執ったのかもしれない。
 斉昭自身、そう感じたらしく、「我ための設にや有むと思ひ」和歌を詠んだという。

 利根川の水は鏡か真なる
 思ひするかの不二のうつし絵

 徳川斉昭は力強い字で記し、本陣を出立した。無事に日光社参を済ませた斉昭ら一行は、帰路に再び上新郷の本陣に立ち寄る。
 すると、本陣の主が徳川斉昭の和歌を収める箱を用意していた。その箱に記す書を求められたので、斉昭の家臣“佐藤延昌”(さとうのぶまさ)が筆を執り、和歌を詠んだ経緯を書き記した。
 これが「佐藤延昌の箱書」である。
 のちの時代、忍藩の国学者だった“黒沢翁満”(くろさわおきなまろ)は、本陣が所蔵する徳川斉昭の和歌に感激する。
このような田舎の家に斉昭の和歌という宝があり、「ふたつなき家のたからとあふけこの山より高き君の恵を」と、翁満自身が和歌を書き記すのだった。
  
その先で「県道59号線」と交差。
                   交差点右に見えるのは「愛宕神社」で、「愛宕塚古墳」でもあります。

こぶりだが、よく整った「勘兵衛松並木」。

(13:25)並木の中には昭和3年建立の「勘兵衛松碑」と解説板。

 


 徳川三代将軍家光公日光御社参ノ道路タルヲ以テ風致ヲ添ユルタメ時ノ忍城主ニ於テ勘兵衛ナル者ニ命ジテ植樹セシモノトノ伝説ニ其キ大正十五年二月十三日本県史蹟名勝天然記念物調査会ニ於テ審査ノ結果天然記念物ト認定セラル
 明治維新当時ニハ百本以上の樹数アリシモ年々風雪に害セラレ枯損ノタメ遂ニ現在三十八本トナリシヲ時恰モ今上天皇御即位ノ大禮ヲ挙行ノ秋ニ際シ稚松五十本ヲ補植シ以テ奉祝記念トス

 昭和三年十一月  北埼玉郡新郷村長渡辺喜代三郎

注:江戸時代から残る松は、現在、1本のみだそうです。

足下には松が描かれたタイル。

「並木橋」。
 
                   

左手が開けてきます。赤城山(赤)と日光・男体山(黒)が遠くに。

街道は利根川の土手に突き当たります。

(13:40)江戸時代は渡し舟でしたが、今は「昭和橋」で対岸へ。

ここには「川俣関所(新郷川俣関所)」が設けられました。

「昭和橋」の橋のたもとに建てられているのは「史蹟 川俣関所址」碑と解説板。




 定
一、此関所を通る輩
  番所の前にて笠
  頭巾をぬぐべき事
一、乗物にて通る面々は
  乗物の戸をひらくべし
  但、女乗物は番の輩
  指図にて女に見せ
  可通之事
一、公家・門跡衆・諸大名
  参向の節は 前かどより
  其沙汰可有之間不及 
  改之 自然不審の儀
  あらば可為各別事

  右 可相守此旨者也
  仍執達如件
 貞享三年四月
    奉行 

                           
旧跡 川俣関所跡
 川俣関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治2年(1869)に廃止されるまでの役260年間続いた。
 この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲の入るのを厳しく取り締まった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。
 関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のためその路は川底になってしまった。
 関所路は、はじめ史跡として県の指定を受けその後昭和32年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和36年9月1日旧跡と指定変更された

                               注:関所(跡)は昭和32年の河川改修の際に川底になってしまいました。

対岸を望む。

上流方向を望む。

下流方向を望む。↓は筑波山。



1880年代のようす。かなりの大河のようです。渡し船もなかなか大変だった? 対岸が「川俣宿」。関所の標示はない。

注:この地図では、右岸側にも「本川俣」という地名があります。「川俣」村は、「利根川」東遷によって分断されてしまったのでしょうか? 



2010年代のようす。今も昔も渡河の大変さには変わりなさそうです。

「利根川」。

                      

(13:48)男体山が遠くに(↓)。

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