おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その6。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-14 19:33:52 | 日光千人同心街道
                               「川俣宿」。
        
        
        
1880年代のようす。直線に延びるのが「川俣宿」。    2010年代のようす。当時のままの街道。

かつての賑わいをよそに。

(13:57)土手のすぐ下、左側に「旧本陣塩谷家」。

土手で車が通行止めのため、車が少なく静かで落ち着いた街並み。
小公園には、
 
富士見の渡しと日光脇往還
 川俣集落は、旧日光脇往還(現在の旧122号線)を挟んで、両側に家並みが密集して形成されているが、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、利根川沿いに渡船場も船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、水運の河岸としても栄えた。
 日光脇往還は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い江戸~日光の参詣道としても利用され「日光脇往還」と呼称されるようになった。」この道路は、江戸日本橋~鴻巣迄は中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)―新郷―川俣―館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光迄は例幣使道と重複する。このためこの4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と称する場合もある。・・・・
 川俣宿は、古文書によれば、寛永20年(1643)頃には宿駅として成立していたものと推定される。また元禄元年(1688)には助郷村として12ヶ村が指定され、大名の通行時等の場合、この村々が応援の人馬を負担したことが知られている。
 川俣渡船場は、元和2年(1616)に、関東16渡津の一つに挙げられ、渡船者の厳重な取り締まりが行われるなど、江戸防衛のための拠点とされていた。また渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。
 川俣河岸は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出し(船による江戸への)積み出しの拠点として機能し、弘化3年(1846)においては、館林領48ヶ村の内27ヶ村の年貢を扱っていたと記録されている。
 以上のように江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907)の鉄道の開通により、その役割を、現在に到った。
           明和町川俣宿保存研究会
現在の街並み。


その向かいに大きく立派な「川俣事件記念碑」。

                     
碑 文
 川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
 明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
 1898(明治31)年9月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しっを決行した
 その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
 時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
 この後田中正造は足尾銅山鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
 1900(明治33)年2月13日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第4回目の東京押出しを決行した
 前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500余名の被害民は翌朝9時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手間同村川俣地区内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ち受けた300余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である 
 この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
 この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける 
 この地で川俣事件が発生してから100年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
 この史実を風化させないために ここに川俣事件発生100年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである。

「上宿橋」際に立つ記念碑。 

宿内を振り返る。

 川俣宿を出てからは、二手に分かれる「国道122号線」の間、斜めに進んでいきますが、全面工事中のため迂回、途中から旧道に戻ります。


(14:24)今回はここまで。

右折して、(14:32)東武伊勢崎線「川俣」駅。

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