宿場内には「常夜燈」が目立ちます。
右の「常夜燈」の隣にある建物。大正モダンという雰囲気。
「大慶寺」の「久遠の松」。クロマツの大樹。なかなか見事。
宿内には、この先の「正定寺」境内にも「本願の松」というすばらしい松があります。
「藤枝宿案内絵図」。確認しながら歩けます。
商店街(名称も地区ごとに付いている)を進むと、歩道のところに「下本陣跡」のタイル。
その先には、「上本陣」跡。
「ニコニコヤ」さんとか隣のタクシー会社などの一角がそうだったのでしょうか?
宿内を望む。
しばらく行くと、「問屋場」跡。今は交番になっています。
ここが版画の上伝馬問屋場跡
慶長6年(1601年)徳川家康は宿を置き、旅人や荷物を次の宿場まで運ぶ継立(つぎたて)と通信業務のために人馬や飛脚をそろえました。
これを伝馬制といい、その業務を取り扱う場所を問屋場(といばや)といいました。
その後田中城の大手口にも問屋場が置かれたので、前者を上伝馬、後者を下伝馬といって区別していました。
「東海道五十三次 藤枝 人馬継立」(絵師 安藤広重)
岡部より1里29町。広重は,保永堂版ではこのあたりの風景にはまったく目をむけず,宿駅における問屋のありさまを描いている。ウマの背から荷をおろすもの,荷物を重そうにかつぎあげようとするもの,汗をふくものなど,労働人夫の世態をことこまかに描写する。問屋場というのは伝馬所とか馬締とかいい,駅伝の中枢機関であった。荷物の目方をはかり,賃銭をきめ,人馬の継立てや貨物運送のあっせんをする場所であった。この貨物をになうためにウマや雲助がかかえられ,役人がこれを統率した。広重画はこのありさまをいまにつたえる。
(『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』鹿児島県立図書館HPより)
大正期の藤枝「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」
(「知足美術館」HPより)
「継立」とは旅人の荷物を宿場から宿場へと受け継ぐ際に、人や馬を新しく換えること。東海道は江戸から京都の間に、53の宿場が設けられていたため、「東海道五拾三次」と呼ばれるようになりました。
しばらく進み、「藤枝宿」の西のはずれ、「瀬戸川」に架かる「勝草橋」を渡ります。ここで約2㎞にわたる「藤枝宿」も終わりです。
「隷書版東海道 藤枝」には瀬戸川が描かれています。雨をしのぐ人馬の姿が印象的です。
「勝草橋」の西のたもとには「田沼街道」の説明があります。
田沼街道
勝草橋の志太側の袂から瀬戸川堤を百㍍ほど下流へ行った場所は、田沼街道の終点であった。田沼街道は宝暦8年(17589相良藩主になった田沼意次(おきつぐ)によってお国入りのために整備された道で、相良街道ともいった。城下町であった相良の湊橋を起点として、相良・棒原・吉田の静岡地域を通り、大井川を小山の渡しで渡河して藤枝宿へ至る約7里(28㎞)の道であった。田沼意次は幕府老中として権勢を誇ったが、政権争いに敗れて天明6年(1786)に老中を罷免され失脚し翌年には相良城も取り壊された。田沼街道は大名の通行路としてでなく、河岸部と山間部を結ぶ物流の道としても盛んに利用された。吉永や静浜で作られた塩を藤枝方面へ運ぶため行商人が往還したといい、田沼街道の内瀬戸谷川の橋は塩取橋といわれ、塩売り商人から税を納めさせた場所であった。江戸時代の田沼街道は近代の道路拡幅やくっかうせいりなどによって現在その面影をとどめていない。
勝草橋を渡るとすぐ右手に「志太一里塚」の石碑が立っています。
志太一里塚
奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。 主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当り、瀬戸川堤から西へ約50M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。
平成10年5月 青島史蹟保存会
これでようやく日本橋から「200㎞」となりました。宿場も22ヶ所クリア。
「藤枝宿案内絵図」もここまで。
次の「島田宿」までの街道歩きとなります。
「八百屋本陣」。 「おんな泣かせ」。
ほんのわずかの「松並木」。
これを過ぎると、「青木」の交差点。今回はここまで。
さすが藤枝。足元にもサッカーのハメ絵が。
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