おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大久保主水。巻石。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その3。

2013-10-04 22:06:03 | 河川痕跡

 つるべ落としの秋の日。早くも陽が傾き始めました。先を急ぎましょう。上流から下流への道筋だと思っていましたが、ほぼ等高線沿いのたどり道。
「旧町名案内」。水道端。図書館前。そこには重要なことが書かれてありました。

 神田上水は最初の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った。小日向台地を素掘で通した。明治11年頃石で巻いて暗渠にした。それで、巻石通りまたは水道通りと呼んでいる。

 ここに、造成者としての大久保主水という名と、「巻石」通りの由来が明らかに。


より。大変興味深い記事がありました。

大久保藤五郎と三河餅(掲載日2008年11月16日)

上水の始め
 天正18年(1590)徳川家康は、それまで領有していた駿河・遠江・三河などを離れ関東に移り、江戸に本拠を置きました。そのころの江戸は入り江や低湿地が多く、井戸を掘っても良い水に恵まれない土地でした。そこで家康は家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう 不詳~1617)に上水道の見立てを命じました。藤五郎は江戸の西にある井の頭池や善福寺池などを水源とする上水を開発しました。この上水は小石川上水とよばれ、後に神田上水へと発展しています。
 家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。

三河餅を献上
 話は藤五郎が上水道を開発する以前にさかのぼります。彼は家康の小姓を務めていたのですが、戦の傷がもとで、三河国上和田(岡崎市)に引きこもり、時折菓子を作っては家康に献上しました。江戸幕府の歴史を記した『徳川実紀』によれば、家康は主水の作った菓子を「御口にかないしとて毎度求め」ていました。そのなかに駿河餅とよばれる菓子があります。
 この餅は大久保主水家の由緒書などによれば三河餅となっています。三河も駿河も家康にとってはゆかりの深い土地ですので、どちらの名でもおかしくはありませんが、ここでは大久保家の由緒書ほかから三河餅の名をとりました。大久保家には藤五郎が鎧を着て、家康に餅を献上する絵が残されていますが、ずいぶん大きな紅白の餅で、これが三河餅と言われています。後年、家康が小石川用水の水源、井の頭池を訪れ、茶を点てた時にも三河餅を献上しています。この時には、湯を沸かした「宮嶋」という銘のある茶釜を主水は拝領しました。

幕府御用菓子屋大久保主水
 主水を名乗った藤五郎の子孫は、代々幕府の菓子御用を勤めました。古くは大久保主水一人で、徐々に増えて江戸時代後期になると4・5軒の菓子屋に増えています。しかし、江戸時代を通じて勤めた御用菓子屋は大久保主水家のみです。
 大久保主水は、幕府のさまざまな菓子作りに関わりました。6月16日は嘉祥の日、江戸城大広間には2万個を超す菓子などが並べられ、将軍から大名旗本へ菓子が分け与えられました。この菓子も歴代の主水が中心になって作りました。
参考:「徳川家康と嘉祥」、本HPコラム歴史上の人物と和菓子/『徳川実紀』第一篇

 「もんど」を「もんと」と濁らない。そして、本職は、和菓子作りだったとは? 新発見でした。

 さて、「巻石」の方は? どういう工法なのか?
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)当時も明治時代もそして今でも、神田上水の道筋はまったく変わらずにある。道の真ん中の破線になっているのが暗渠だったようだ。現在の「巻石通り」。
 ネットで調べると、お墓に関するものばかり。「お墓は石碑の周りを石で囲みますが、これを巻石といいます。」
境界線として石で囲むこと、また、囲んだ石を指すようです。でも、「巻く」という表現はどこから来るのか?
 お墓の写真を見ても、境界線に沿ってぐるりとしっかりと石を並べて定めていく工法のようです。神田上水の場合は上の部分に石で蓋をしたということでしょうか? 
 「巻石通り」という通称名はぜひ残してほしいものです。できたら、通り沿いにそのいわれも大きく掲示してほしいですのですが。

「www.honkane.com/bunkyou-suidoh1.html」<文京区民のページ>より。

●巻石通り
 文京区春日と水道の間
ここは昔、神田上水が通っていました。地域の人々は、”巻石通り”と呼んでいます。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。
 明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。
 その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた 兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
と荒木坂の説明にありました

 このHPの会社が葬儀屋さんというのも何かのご縁。

北側の小日向台地上は寺町になっている。
夏目漱石の菩提寺である「本法寺」。
坂道の多い町。
区立金富小学校脇。「金富」のいわれは定かならず。この小学校、校舎と校庭(グランド)の間には、お寺がどっしりと構えていました。寺町ならではの光景。

「旧町名案内」大和町。そこには、源頼朝にまつわる北野神社(牛天神)の縁起が記されています。当時、小日向台地の崖下は海(東京湾)だったようです。
(「今昔マップ」より)青い○が牛天神。標高は21㍍で、後楽園付近は5㍍。現在の地図からも東京湾の入り江が深く入り込んでいたことが分かります。(緑色の部分が標高の低いところ。)
 縁起によると、源頼朝が1184年東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅神(道真)が牛に乗って現れ二つの吉事があると告げた。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができ、ここに社殿を造営した。(「文京区」HPより。)
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央左に「北野社」。下方の流れが「神田上水」。このあたりから、開渠になる。右下が後楽園方向。現在の「牛天神下」交差点付近。
遠くに「後楽園遊園地」。
「巻石通り」を望む。
「小石川後楽園案内図」。左下の道が「巻石通り(神田上水)」。
築地塀の石垣。江戸城鍛冶橋門北側の外堀跡から出土した石垣の石材を使って再現した、とのこと。
すでに園外の街灯の明かりが。

(「同」)上方を流れているのが神田上水。
(「同」)東側を開渠で流れていく。

         
しばらく進むと、暗渠になり、南に向かう。「神田川」に架かる中央の橋が「水道橋」、右端の橋が「万年筧」。一方は、神田・日本橋方向へ、もう一方は内堀方向へ、辻、辻を曲がりながら流れていたことが分かる。青色の点線。
神田川・水道橋のほとりにある「案内板」。黄色い線が「神田上水」。

水道橋のたもとにあるレリーフ。かつての「水道橋」のようすを描いている。
現在の「水道橋」という表示。
橋の上からの「神田川」の流れ。

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