下り坂。かなりの急坂。
といっても、緩い上り、下り坂はあります。
道のわきに小さな祠。
「滝ケ谷戸」バス停。坂の多い街ですが、バスの本数は極めて少ない。
車などの便のない、お年寄りは気の毒な感じ。
バス停にやってきた老女。「減らされる一方よ。ホント困っちゃうわ。横浜市は何をやってんのかね」。
久々の「飛び出し坊や」風の看板。自作? 小さく、やさしい顔立ち。
東海道歩きの時には滋賀県付近からゴールの京都まで、たくさん見かけましたが、関東では珍しい。
※飛び出し坊やは、1973年に滋賀県東近江市にある「久田工芸」にて誕生しました。もともと地元の看板屋さんだった久田工芸が社会福祉協議会より「急増している子どもの飛び出し事故を防ぐ看板を作ってほしい」と依頼を受けたことがきっかけでした。
1973年に誕生した飛び出し坊や。2023年で生誕50周年です。
閑話休題。
「佐江戸町」に入ります。
「山王前」の信号で右の道を進みます。
マンションに「佐江戸」の地名が。
「佐江戸」交差点。
※この付近の標高は11.8m(「今昔マップ」による)なので、40mほど下ってきたことになります。
「恩田川」が「鶴見川」に合流する「佐江戸」は交通の要衝であった。鎌倉時代には武蔵国都筑郡佐江土郷と呼ばれた。戦国時代に猿渡内匠助が小机城(今の港北区小机町)の支城として佐江戸城を築いたとされる。猿渡氏は大國魂神社の神主家であった。隣の川和町でも川和城が築かれており、重要な地であったことが分かる。この頃は北条氏尭の領地であり、記録には北条氏尭が百姓に、今後は人夫役などを全て免除するとしたとある。
江戸時代以降は都筑郡佐江戸村であった。1671年に継立場を巡って中山村と対立。幕府は当村であると判断を下した。江戸後期には神奈川宿の助郷役となった。1889年の市町村制によって都筑郡都田村大字佐江戸に変更。1934年1月町制が施行されたことに伴い都筑郡川和町大字佐江戸に改称。1939年4月、横浜市港北区に編入され、大字佐江戸の地に佐江戸町を新設。米や小麦を中心とした農業が盛んだったが、やがて都市向けの野菜を栽培する近郊農業が盛んになる。1956年に池辺町と境界変更があった。1969年10月、横浜市の分区に伴い、緑区に編入。1994年11月、港北区・緑区の再編に伴い新設された都筑区に編入。(「Wikipedia」より)
※1 佐江戸の由来には、「もともとは西土だったが、徳川入国以来、ひだり江戸に当たるので、左江戸と書き、のちに佐江戸となった」という言い伝えや、「村の外から病や悪いものが入らぬよう道祖神(サエノカミ)を祭った所をサエドということからこの地をサエドと呼び、佐江戸という漢字を当てた」という説などがあります。(「no+e とうーむゅらす」HPより)
※2 この北西、恩田川・鶴見川沿いに「青砥」という地名があります。「青砥」は東京にもあります。
東京都葛飾区青戸(京成電鉄の「青砥駅」は「青砥藤綱」にあやかったもので、地名は「戸」。
「戸」は、「津」と同意で、船運に関わる地名。中川(古利根川)に面しています。この佐江戸の「戸」も「鶴見川」に関わり、船運に関わる地名と考えられます。江戸時代になって「江戸」という字を当てはめたもののようです。
「佐江戸」バス停。
丘陵の東南の端、「中原街道」沿いに、町が形成されている。 「今昔マップ」より)
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→が中原街道。○青砥という地名があります。 (「同上」より)
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