いつだったか墨田区立緑図書館の展示コーナーの資料で、大正から昭和のはじめにかけての墨田区(戦後、本所区と向島区が合併し現在の墨田区が誕生した。したがって、当時は、まだ「向島区」)の地図を貰ったことがあった。その時に、向島から白髭橋までの京成線があったことを知った。
その後、何回か周辺地域を自転車や徒歩で歩き回ったが、その痕跡を見つけることはまったく出来なかった。
さらに今、八広駅から押上駅までの高架線工事が始まっていて(これは、曳舟駅付近の明治通りの踏切で大きな死傷事故が発生、それを機縁として念願だった、高架工事が本格化したものである。)、そのために沿線の家屋などが移転され、すでに線路の敷設までが行われている状況では、なおさら困難である。
まして、街中においては、戦争でほとんど消失するような大きな被害を受け、敗戦後の復興のため、線路の痕跡は消失してしまっている。それでも、唯一、京成線の線路際に、何とかその痕跡はないだろうか。
昭和22年の航空写真(goo)では、曳舟駅(現在地よりも、当時はもうちょっと押上寄りだった)と八広駅(当時は荒川駅)との間の線路脇には、少し空間が残っていて、京成の土地のようになっている。その後、昭和38年の航空写真では、その少し北側に車両基地のような建物が出来ている。これは、開業したばかりの都営地下鉄1号線(現都営浅草線)の「向島検修場」の姿である。現在の八広5丁目都営住宅が線路と接する辺りである。
写真は、曳舟と八広の間の踏切から北側を撮ったもの。すでに高架工事のための仮設線路が敷かれている。このあたりに「向島駅」があったと思われる。この踏切の通りが、駅の入り口につながっていたかもしれない。
一方、永井荷風の「濹東奇譚」(昭和11年11月)には、その年の1月に廃止された「京成玉の井」駅のようすが描かれている。当時、玉の井(現在の「玉の井いろは通り」北西側一帯)は、私娼たちの町として大いに繁盛していた。
「線路(注:東武線・玉の井駅付近の線路のこと)に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取り払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城跡のような趣をなしている。わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて来た道と空き地と新開の町とが低く見渡されるが……」
とあって、京成電車は、東武線を鉄橋で越えていて、駅舎は土手の上にあったようだ。荷風の登った土手や鉄橋が、戦前までは残っていたとか。今は、まったく痕跡もない。
また、終点の「白髭」駅は、今の「白髭橋病院」(墨堤通りと明治通りの交差点付近)あたりだったらしい。
「長浦」駅は、曳舟川(現在は埋め立てられ、「曳舟川通り」となっているが、当時はまだ用水が流れ、両側は道となっていた)を渡った所にあったらしい。現在の長浦神社の北西? これも痕跡はない、(と思う)。
京成電車(当時の社名:京成電気軌道株式会社)は、1928(昭和3)年に白鬚線(向島 - 白鬚間1.4㌔)を開業。駅は向島・長浦・京成玉の井・白鬚の4駅。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道と結ぶ計画もあったが、1936(昭和11)年2月末に廃止された。その後、「向島」駅も、1947(昭和22)年に廃止となった。
白髭線開通当時、向島駅周辺には、南竜館という映画館や商店街(南竜館商栄会)があり、現在、線路沿いにある大きな団地(八広5丁目都営住宅)の所には、ミツワ石鹸の工場があり大い賑わっていたとのこと(緑図書館の資料にもあった)。
現在、映画館はなく、西側はほとんど商店もなくなり、京成の線路を越えた東側にある商店街も当時の面影はなく、普通の民家も増えて、寂しい街並みになっている。
なお、駅廃止後の跡地は、京成電鉄の所有地であるため、直接・子会社を含め、たびたび利用されている。
1959(昭和34)年頃、改軌工事に伴う車両の台車交換基地として。
1960(昭和35)年~1968(昭和43)年 向島信号場を設置(都営浅草線向島検修場への信号場)
1991(平成3)年~2001(平成13)年 押上線荒川橋梁架け替えに伴う作業基地として。
現在は、八広~押上の高架線工事区間。おそらくこれで、向島駅の痕跡もまったくなくなる。
※忌野清志郎が、亡くなった。
僕は、ロック系の音楽にはあまりなじみがない。
しかし、いつだったか、野田秀樹の芝居(たしか『パンドラの鐘』)を観たとき、開演前にこの人の「君が代」が、延々と流れていた。かすれた声で(これは、そうとう声帯に負担がかかっているだろうな、ポリープでもできなければいいが、などと、聞いた瞬間に余計な心配をしてしまったが・・・)歌ったあの歌には、どっきとするような迫力があった。
野田がこの曲を流した意図や忌野の意図がどこにあったかは定かではないが、ああいう歌い方の中で、天皇ヒロヒトとその息子に対して、「ホントウに、君(たち)が(の)代(時代)なのか」という強烈なメッセージが含まれているように思った。
これを書きながらも、今でも、あの歌い方での「君が代」が耳に残っている。
学校で「強制的」に「立たせ」て「歌わせる」(もちろん、「国歌斉唱」だし、「強制ではない」し、「立って」だし、「歌う」のだ、と反論するむきもあるだろうが)「君が代」よりもはるかにインパクトがあった。惜しい男を亡くした!
その後、何回か周辺地域を自転車や徒歩で歩き回ったが、その痕跡を見つけることはまったく出来なかった。
さらに今、八広駅から押上駅までの高架線工事が始まっていて(これは、曳舟駅付近の明治通りの踏切で大きな死傷事故が発生、それを機縁として念願だった、高架工事が本格化したものである。)、そのために沿線の家屋などが移転され、すでに線路の敷設までが行われている状況では、なおさら困難である。
まして、街中においては、戦争でほとんど消失するような大きな被害を受け、敗戦後の復興のため、線路の痕跡は消失してしまっている。それでも、唯一、京成線の線路際に、何とかその痕跡はないだろうか。
昭和22年の航空写真(goo)では、曳舟駅(現在地よりも、当時はもうちょっと押上寄りだった)と八広駅(当時は荒川駅)との間の線路脇には、少し空間が残っていて、京成の土地のようになっている。その後、昭和38年の航空写真では、その少し北側に車両基地のような建物が出来ている。これは、開業したばかりの都営地下鉄1号線(現都営浅草線)の「向島検修場」の姿である。現在の八広5丁目都営住宅が線路と接する辺りである。
写真は、曳舟と八広の間の踏切から北側を撮ったもの。すでに高架工事のための仮設線路が敷かれている。このあたりに「向島駅」があったと思われる。この踏切の通りが、駅の入り口につながっていたかもしれない。
一方、永井荷風の「濹東奇譚」(昭和11年11月)には、その年の1月に廃止された「京成玉の井」駅のようすが描かれている。当時、玉の井(現在の「玉の井いろは通り」北西側一帯)は、私娼たちの町として大いに繁盛していた。
「線路(注:東武線・玉の井駅付近の線路のこと)に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取り払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城跡のような趣をなしている。わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて来た道と空き地と新開の町とが低く見渡されるが……」
とあって、京成電車は、東武線を鉄橋で越えていて、駅舎は土手の上にあったようだ。荷風の登った土手や鉄橋が、戦前までは残っていたとか。今は、まったく痕跡もない。
また、終点の「白髭」駅は、今の「白髭橋病院」(墨堤通りと明治通りの交差点付近)あたりだったらしい。
「長浦」駅は、曳舟川(現在は埋め立てられ、「曳舟川通り」となっているが、当時はまだ用水が流れ、両側は道となっていた)を渡った所にあったらしい。現在の長浦神社の北西? これも痕跡はない、(と思う)。
京成電車(当時の社名:京成電気軌道株式会社)は、1928(昭和3)年に白鬚線(向島 - 白鬚間1.4㌔)を開業。駅は向島・長浦・京成玉の井・白鬚の4駅。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道と結ぶ計画もあったが、1936(昭和11)年2月末に廃止された。その後、「向島」駅も、1947(昭和22)年に廃止となった。
白髭線開通当時、向島駅周辺には、南竜館という映画館や商店街(南竜館商栄会)があり、現在、線路沿いにある大きな団地(八広5丁目都営住宅)の所には、ミツワ石鹸の工場があり大い賑わっていたとのこと(緑図書館の資料にもあった)。
現在、映画館はなく、西側はほとんど商店もなくなり、京成の線路を越えた東側にある商店街も当時の面影はなく、普通の民家も増えて、寂しい街並みになっている。
なお、駅廃止後の跡地は、京成電鉄の所有地であるため、直接・子会社を含め、たびたび利用されている。
1959(昭和34)年頃、改軌工事に伴う車両の台車交換基地として。
1960(昭和35)年~1968(昭和43)年 向島信号場を設置(都営浅草線向島検修場への信号場)
1991(平成3)年~2001(平成13)年 押上線荒川橋梁架け替えに伴う作業基地として。
現在は、八広~押上の高架線工事区間。おそらくこれで、向島駅の痕跡もまったくなくなる。
※忌野清志郎が、亡くなった。
僕は、ロック系の音楽にはあまりなじみがない。
しかし、いつだったか、野田秀樹の芝居(たしか『パンドラの鐘』)を観たとき、開演前にこの人の「君が代」が、延々と流れていた。かすれた声で(これは、そうとう声帯に負担がかかっているだろうな、ポリープでもできなければいいが、などと、聞いた瞬間に余計な心配をしてしまったが・・・)歌ったあの歌には、どっきとするような迫力があった。
野田がこの曲を流した意図や忌野の意図がどこにあったかは定かではないが、ああいう歌い方の中で、天皇ヒロヒトとその息子に対して、「ホントウに、君(たち)が(の)代(時代)なのか」という強烈なメッセージが含まれているように思った。
これを書きながらも、今でも、あの歌い方での「君が代」が耳に残っている。
学校で「強制的」に「立たせ」て「歌わせる」(もちろん、「国歌斉唱」だし、「強制ではない」し、「立って」だし、「歌う」のだ、と反論するむきもあるだろうが)「君が代」よりもはるかにインパクトがあった。惜しい男を亡くした!
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