しばらく「国道1号線」を進みます。「(日本橋まで)425.8㎞」ポスト。左手、反対車線の向こう側に「関宿入口」の看板が見えたら、その先、右手の道に入ります。
ガードレールに「坂下宿→」。
のどかな山間の道を進みます。
「市瀬橋」からの「鈴鹿川」。
道は再び「国道1号線」に合流。道路をはさんだ先に「常夜燈」。
横断して家並みの中を行き、工場の脇を過ぎると「国道1号線」に合流。ここからはしばらく「国道1号線」沿いに進みます。
振り返って来た道を望む。
右手に入る道を少し行くと「筆捨山」の解説板。
亀山市名勝 筆捨山
東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する、標高289mの山である。
もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため描き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。
江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。
歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪の下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。
浮世絵では山中に滝が描かれるが実際には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音清滝の印象が盛り込まれているようである。
平成19年3月 亀山市教育委員会
東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺 / 歌川 広重
阪之下の宿から筆捨山を眺望する。狩野元信が、この山を描こうとしたが、余りの美しさに筆を投げ捨て断念したという言い伝えがある。山頂までにところどころ、岩石が露出し、渓谷を形成し、二条の滝が流れている。茶店の旅人は、その絶景を眺め、清涼な空気をすって休んでいる。下からは荷を積んだ牛が茶屋に近付いてきている。
(「知足美術館」HPより)
この解説文では筆捨山の「余りの美しさに」となっていますが、地元の解説文にある「雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため描き足すことができず」ということのようです。「鈴鹿馬子唄」のように鈴鹿峠付近の変わりやすい天気の変化になぞらえた「逸話」でしょう。もっとも狩野元信がここを訪れたという史実もあやふやなようですが。
大正期の阪之下。(「同」より)
この写真は、広重の絵とほぼ同じ位置から撮影したようで、おそらく「鈴鹿川」の対岸をまわりこんだ付近からのもの。
広重が描いた茶店から「筆捨山」のごつごつした岩肌を眼前に見ることは、現在の東海道歩きからでは無理なようです。遠目で見る限り、何の変哲も無い山にしか見えないのは残念です。特に奥に見える山を「筆捨山」と紹介するケースもあります。
おそらく関宿から坂下宿、土山宿までの鈴鹿峠越えの「旧東海道」は、「国道1号線」の改修等によって寸断されてしまい、江戸時代本来の道筋ははっきりしていないのではないでしょうか? この先も旧東海道の道筋とはいくぶん異なるような個所が何度か出てきます。
私道のようなところを入って行くと、農作業中の方が指さして、手前の、ごつごつした岩が見える山が筆捨山だよ」と。
「年に何度か向こうの山との間の谷に霧が湧いて、筆捨山が見えなくなることがあるよ。」
↓が「筆捨山」
御礼を言って再び「国道1号線」に戻ります。しばらく道なりに行くと、生い茂った草むらに「国道改修記念碑」があります。
右手へ分岐する辺り、国道の向こう側に「一里塚」。
通過する車の切れ目をついて道路を渡り、パチリ。
「市瀬一里塚」。日本橋から107里目。
ここを右に折れる。
「東海自然歩道」の標識。
人気のまったく無い道を歩きます。
「沓掛」バス停。但し平日の午前中のみ運行。
相変わらず人に出会わない。「鈴鹿峠」は正面の山並み方向。
木の柱に「日本橋」から「三条大橋」までずらりと並ぶ坂道を上がっていきます。
左手にユニークなかたちをした「鈴鹿馬子唄会館」。今日は休みのようでした。道を挟んだ右手は「「鈴鹿峠自然の家」。
鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)
鈴鹿峠自然の家は、「坂下尋常高等小学校」校舎として昭和13年(1938)に建てられた。
同小学校は昭和54年3月に廃校となったが、その後は坂下公民館として坂下地区の人々を中心に活用され、現在は青少年のための宿泊研修施設「鈴鹿峠自然の家」として活用されている。・・・
平成14年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
昔懐かしい木造校舎。じっくり見学したかったのですが、校庭の入口に鎖がかかっていて中に入れませんでした。
(写真は公式HPより)
「坂下宿」に向かって出発。
振り返って望む。
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