「寄居」集落のようす。
土蔵造り。屋根は赤茶けた色合い。
ここではこうした朱塗りの屋根や塀が目につきます。
(12:14)「寄居本郷」バス停。
「道標」。
「寄居」は「下野国」最後の間の宿として賑わっていたようですが、今は静かな街並みです。
「常夜燈」。
「寄居」を振り返って望む。
(12:21)再び国道に合流します。
「白坂」宿から「芦野宿」までの区間。「国道294号線(旧奥州街道)」の整備・拡幅(直線化等)工事によって旧道は寸断され、丘陵と平地(田んぼ)の間にあった集落同士を結んで進んでいた旧道は、ほとんど消滅してしまい、集落内に一部残っているだけのようです。
路傍にある古い石塔群。その付近に旧道?
歩道沿いにある植樹が鳥の姿に刈り込まれています。
遠く「寄居」方向を望む。
左手が旧道?
国道脇の小高い塚・墳墓? 振り返って望む。
けっこう長く続く道(信号機はまったくない)。
左手に常夜燈。新しいもののようですが。
その脇の道が旧道?
(12:40)「平田」バス停。裏手は「三ヶ村公民館」。
左手にある「板屋」という間の宿へ向かいます。
(12:45)火の見櫓のもとに「五輪塔」。
「道標」。
左の道を入ると「脇沢」。
古い馬頭観音碑群。
ここにも朱塗りの屋根のおうち。
小さな集落を抜けて田んぼの脇の道を進みます。路傍には「馬頭観音」などが。
「横岡」「高瀬」? を振り返って望む。
右手に「高徳寺」。もう少し進んだ、写真の右手後方に「手つかずの奥州街道」道があるとか。
再び田んぼ沿いの道。
坂道を進むと「板屋」地区。
(13:10)坂道を登り切ったところに「板屋の一里塚」。
解説板と馬頭観音など数碑。
那須町指定史跡 板屋の一里塚
奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長9年(1604)5月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の三ケ所がある。板屋の一里塚は、日本橋から44里(176キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西二ケ所に残存し、当時の面影を残している。
那須町教育委員会
どの部分が塚なのか、左右とも判然としません。坂を削って切り通しにしたために、塚は高い位置になっています。
来た道を振り返って望む。
行く先を望む。けっこう急な坂道。
集落の中心地に入って行きます。
坂下にも「一里塚」の解説板。
(13:14)右手に「諭農の碑」があります。この先の集落にある「べこ石」と同じく、芦野宿の問屋を務めた戸村忠恕が記したもの。
諭農の碑
板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。
べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。
那須町教育委員会
隣には雑然とした花屋さん?
集落内のようす。 集落ごとに火の見櫓。
「板屋」バス停。
土蔵造りを改造した「第六分團機具置場」。
振り返って望む。
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