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次第に遠ざかる「茶」の字を振り返りながら、いくつもある史跡碑を確認し、そして、広大に広がる茶畑を眺めながら、のんびりと下っていく山道。ところが、この先にとんでもない急坂が待ち構えています。
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写真だとあまり伝わらないが、「落ちていく」先が見えず、爪先が痛くなるほどの一方的に曲がりながらの下り。箱根西坂の「こわめし坂」級かそれ以上。
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「二の曲り」と「沓掛」
「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。
「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を山の神に手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。
「こわめし坂」に比べると、角度とカーブは急だが、長さが短いのは、救い。
この急坂を2,3台、黄色ナンバーの軽トラが上がってくるのにはビックリ。それも、お年寄りが運転していました。地元の方でしょうが。
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眼下が開け、国道1号線の橋脚が見えてきたら、この急坂も一段落。
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橋脚の向こうは、「日坂宿」の家並み。
近代に入ってからのこの辺りの土地の改良もさすがに急坂を切り崩すまでには到らなかったようで、舗装道路に変わるのみ。ただ、何度かの国道1号線の改修工事によって、麓の町並みは大きく変化したものと思われます。奇跡的に「日坂宿」の核心部は変わらなかったようですが。
山側に石垣と水路跡が残っています。旧坂口町に宿の家並が栄えた江戸時代のものらしい。この石垣の反対側に、
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広重「日阪」。
東海道五拾三次 日阪
浮世絵版画 安藤広重作 狂歌入東海道
倭園琴桜
あたらしく 今朝(けさ)にこにこと わらび餅
をかしな春の 立場なるらん
江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。
この浮世絵は、広重が天保3年(1832)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保13年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である。
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ここにある「わらび餅」は、日坂の名物。「葛の粉をまじへて蒸し餅とし豆の粉に塩を和し」たもの、すなわち「葛餅」で、「わらび餅」ではなかったようです。
東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。
ただし掛川周辺は鎌倉時代から歌に歌われるほどの葛布の名産地であり、林道春(林羅山)の「丙辰紀行」(元和2年、1616年)にはこの日坂のわらび餅について、「或は葛の粉をまぜて蒸餅とし。豆の粉に塩を加へて旅人にすすむ。人その蕨餅なりとしりて。其葛餅といふことをしらず。」とあり、天明6年(1786年)頃の「東街便覧図略」にも、「蕨餅とハ言へと実は掛川の葛の粉を以って作れる也」ともある。
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葛餅。 わらび餅。
(以上、写真を含み、「Wikipedia」参照。)
今も昔もわらび粉だけで作った「わらび餅」は希少な高級品、くず粉でつくる「葛餅」はそれに比べて安価。それを「わらび餅」と称して売っていたわけです。
なお、余談ですが、亀戸天神などの名物「くず(久寿)餅」は、ここでいう「葛餅」とは別のものです。
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道の反対側にあったものは、ほとんど朽ちています。旧坂口町にあったものだろうか。この集落は、付近一帯の道路整備で消滅した?
国道一号線の下をくぐり、旧国道一号線(現:県道415線)を横断して細い道に入って行きます。ここが「日坂」宿。
「日坂(にっさか)」という地名は、さっきの急峻な「西坂(にっさか)」から来ているようです。
「日坂宿」の東木戸(見付)跡は、ちょっと見つからずに、すぐ宿場内に。
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右手には、常夜燈。本陣入口に当たっています。
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秋葉常夜燈
日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくりました。
秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻など人目につきやすい場所に建てられました。
日坂宿にはここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基建っておりました。ここの常夜燈は安政3年(1856)の建立でしたが、老朽化が進みましたので、平成10年(1998)に撤去し、改めて復元いたしました。
秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう。
すぐ脇の広場には、大きな案内図。
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ここは宿場町「日坂の駅」
東海道五十三次品川宿から数えて25番目の宿「日坂」
江戸から五十四里余。日坂(にっさか)は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。
「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶3年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。
慶長6年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。
天保14年(1843)の記録によれば、家数168軒、人口750人とあり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒がありました。
大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。
宿場の東口から西口までの距離は、およそ8町半(700メートル)町並みの形態は現在もあまり変わっていません
日坂地域振興の会 日坂宿おこし委員会
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「本陣・扇屋」跡。大きな敷地が残っています。
「本陣跡」説明板。
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本陣跡
江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿にあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。
日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。
本陣の敷地はおよそ三百五十坪・建坪二百二十坪、門構・玄関付の建物でした。嘉永5年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治3年(1870)に店を閉じました。
その後の学制頒布に伴い、明治12年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。
日坂地域振興の会 日坂宿おこし委員会
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問屋場(といやば)跡
宿場では、幕府などの貸客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっており、そのための人馬の設置が義務づけられていました。
宿駅でこの業務を取り扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。問屋は宿内で最も大切な役職でした。
日坂宿の問屋場はかつてこの場所にあり、「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋1人・年寄4人・請払2人・帳附5人・馬指3人・人足割3人・同下役6人です。問屋場へは問屋・年をはじめ宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わったとのことです。
当時の建物、その他の遺物は現存しません。
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「澤屋」。 「池田屋」。
このように古い旅籠なども残されています。こじんまりとしている宿場ですが、なかなか情緒のある家並みです。
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脇本陣「黒田屋」跡
日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。
ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。
黒田家の拵えは文久2年(1862)の宿内軒並取調書上書きに
「間口八間 奥行十五間 畳百一畳 板鋪十五畳 惣坪数〆百二十坪」
と記されております。
また、明治天皇が街道巡幸の際、明治2年3月21日と明治11年11月2日の二回にわたりここ脇本陣で小休止なされました。
宿内を振り返る。緩やかに曲がった道沿い。
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「藤文」の店構え。
説明板。
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藤文・・・日坂最後の問屋役を務めた伊藤文七邸
商家で屋号は藤文。
伊藤文七(号は文陰)翁は安政3年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶応3年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。
維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。
その間、幕府の長州征討に五十両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として二百両を寄付しております。
明治4年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。日本最初の郵便局の一つと云われています。
その孫、伊藤文一郎氏は明治37年(1904)から39年(1906)、大正6年(1917)から8年(1919)、昭和3年(1928)と三期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。
明治9年(1876)11月には昭憲皇太后、翌10年(1877)1月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで御休憩なされました。
この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。
この土地家屋は平成10年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。
文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。・・・
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「萬屋」。
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萬屋
江戸時代末期の旅籠。嘉永5年(1852)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な史料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年甲辰正月・・・」から考えまして、安政年間(1854~1859)のしかも早い時期かと思われます。
同じ宿内で、筋向かいの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。
一階の裏手に抜ける土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子が二階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的あることなどが、この旅籠の特徴です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。
尚、文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。
「間口四間半 畳三十三畳 板鋪六畳 奥行七間半 惣畳数〆三十九畳 惣坪数〆三十三坪七部五厘 旅籠屋嘉七」
今回の修理では、主に一、二階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしませんでしたが、調査結果は図の様になり、階段位置が反対であったり、二階が四間あったと思われます。
文久2年の記載との違いは、この記載が旅籠の営業部門のみを記載しているためです。記録に見られる建坪と解体調査の結果から考えて、食事を供しない宿であったとも思われます。
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