(11:46)橋を渡ると、正面は「採石工場」構内となり、立入り禁止。左から途中で消滅した旧道? が現れてきます。
旧道?
線路沿いを進みます。
時々、電車がすぐ脇を通過します。
人っ子一人通りません。
右手前方に街並みが見えてきました。
(11:57)採石工場の構内を通ります。
◆わが国砕石業のあけぼの◆
わが国の砕石業は、道路舗装工事の普及に伴って発達してきました。明治時代までの道路は、敷石または河川砂利を散布しただけでしたが、大正初期になって米国からアスファルト舗装工法が導入され、それに必要な骨材の生産が行われるようになり、こうして大正8年、日本石油(株)道路部の森豊吉技師および東京の石材業者・荻島茂留氏によって、山梨県初狩に安山岩の砕石工場が建設されました。
これがわが国初の砕石工場です。その後しばらくして関東大震災が起こったことから、道路用砕石の需要は急増し、初狩の砕石事業は順調な経過をたどって成長しました。しかし、荻野氏はやがて根府川に良質の安山岩の山を見つけて移転したため、初狩における本格的な砕石事業は第二次大戦の後まで幕を閉じることになりました。この本邦初の砕石工場は、のちの甲州砕石株式会社初狩鉱業所のすぐ近くでしたが、直接のつながりはありません。
(甲州砕石(株)25年史より抜粋)
上記資料により、諸先輩方が初狩の豊富で良質な岩石に着目されたことにより、砕石発祥の地が生まれました。
(以上、HPより)
前方に踏切が見えてきます。
(12:00)「第七甲州街道踏切」。
「駒橋宿」の手前でJRの「第五甲州街道踏切」を渡りましたが、「第六踏切」はどこにあったのでしょうか?
旧道が明治になって国道になったときには、ここよりもう少し東側にあったのですが、現国道になったときに、旧道と共に廃止されてしまったようですが・・・。
右手に「聖護院道興歌碑」。
碑面の「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」の歌は、京都の聖護院門跡道興の作である。
道興は、関白近衛房嗣の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門は修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を務めた。諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を「回国雑記」に記している。
それによると文明3年(1806)『甲斐国志』の編者、森島基進が自筆し建立したもので、碑高138㌢、周囲76㌢の六角自然石柱である。
今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里
民家の軒先に馬頭観音。
しばらく進むと国道に復帰。
(12:06)「東京より100.1㎞」表示。
街道沿いらしいおうち。「下初狩宿」の家並み。下初狩宿は旧街道が拡張され、国道20号線となっているので、古い町並みは国道の道路面よりも大幅に下がっています。
下初狩宿
本陣2 脇本陣2 旅籠12軒の宿。問屋業務は中初狩宿と半月交代で行った。
「山本周五郎生誕之地碑」。
山本 周五郎
1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた]。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
『婦人倶楽部』連載の「日本婦道記」で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったこと、が挙げられる。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、審査員だった吉川英治の評(「書く物として『名婦伝』のごときは至難の業のほうである」)を許せなかった可能性もある。周五郎は9年掛けて「よじょう」(1952年)でついに恨みを晴らすのである。
・・・
逸話
山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。
主な作品
・日本婦道記 (1942年)
・柳橋物語 (1946年)
・樅ノ木は残った (1954-58年)
・赤ひげ診療譚 (1958年)
・五瓣の椿 (1959年)
・青べか物語 (1960年)
・季節のない街 (1962年)
・さぶ (1963年)
・虚空遍歴 (1963年)
・ながい坂 (1966年)
(以上、「Wikipsdia」参照)
以上挙げた作品は読んだことがあるものです。こうみると、けっこう読んでいますね。
「二十三夜塔」と「常夜燈」。
(12:10)「初狩駅前」信号。
今池家(国登録有形文化財)。医院だったそうだ。
旧道?
線路沿いを進みます。
時々、電車がすぐ脇を通過します。
人っ子一人通りません。
右手前方に街並みが見えてきました。
(11:57)採石工場の構内を通ります。
◆わが国砕石業のあけぼの◆
わが国の砕石業は、道路舗装工事の普及に伴って発達してきました。明治時代までの道路は、敷石または河川砂利を散布しただけでしたが、大正初期になって米国からアスファルト舗装工法が導入され、それに必要な骨材の生産が行われるようになり、こうして大正8年、日本石油(株)道路部の森豊吉技師および東京の石材業者・荻島茂留氏によって、山梨県初狩に安山岩の砕石工場が建設されました。
これがわが国初の砕石工場です。その後しばらくして関東大震災が起こったことから、道路用砕石の需要は急増し、初狩の砕石事業は順調な経過をたどって成長しました。しかし、荻野氏はやがて根府川に良質の安山岩の山を見つけて移転したため、初狩における本格的な砕石事業は第二次大戦の後まで幕を閉じることになりました。この本邦初の砕石工場は、のちの甲州砕石株式会社初狩鉱業所のすぐ近くでしたが、直接のつながりはありません。
(甲州砕石(株)25年史より抜粋)
上記資料により、諸先輩方が初狩の豊富で良質な岩石に着目されたことにより、砕石発祥の地が生まれました。
(以上、HPより)
前方に踏切が見えてきます。
(12:00)「第七甲州街道踏切」。
「駒橋宿」の手前でJRの「第五甲州街道踏切」を渡りましたが、「第六踏切」はどこにあったのでしょうか?
旧道が明治になって国道になったときには、ここよりもう少し東側にあったのですが、現国道になったときに、旧道と共に廃止されてしまったようですが・・・。
右手に「聖護院道興歌碑」。
碑面の「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」の歌は、京都の聖護院門跡道興の作である。
道興は、関白近衛房嗣の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門は修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を務めた。諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を「回国雑記」に記している。
それによると文明3年(1806)『甲斐国志』の編者、森島基進が自筆し建立したもので、碑高138㌢、周囲76㌢の六角自然石柱である。
今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里
民家の軒先に馬頭観音。
しばらく進むと国道に復帰。
(12:06)「東京より100.1㎞」表示。
街道沿いらしいおうち。「下初狩宿」の家並み。下初狩宿は旧街道が拡張され、国道20号線となっているので、古い町並みは国道の道路面よりも大幅に下がっています。
下初狩宿
本陣2 脇本陣2 旅籠12軒の宿。問屋業務は中初狩宿と半月交代で行った。
「山本周五郎生誕之地碑」。
山本 周五郎
1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた]。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
『婦人倶楽部』連載の「日本婦道記」で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったこと、が挙げられる。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、審査員だった吉川英治の評(「書く物として『名婦伝』のごときは至難の業のほうである」)を許せなかった可能性もある。周五郎は9年掛けて「よじょう」(1952年)でついに恨みを晴らすのである。
・・・
逸話
山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。
主な作品
・日本婦道記 (1942年)
・柳橋物語 (1946年)
・樅ノ木は残った (1954-58年)
・赤ひげ診療譚 (1958年)
・五瓣の椿 (1959年)
・青べか物語 (1960年)
・季節のない街 (1962年)
・さぶ (1963年)
・虚空遍歴 (1963年)
・ながい坂 (1966年)
(以上、「Wikipsdia」参照)
以上挙げた作品は読んだことがあるものです。こうみると、けっこう読んでいますね。
「二十三夜塔」と「常夜燈」。
(12:10)「初狩駅前」信号。
今池家(国登録有形文化財)。医院だったそうだ。
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