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「しんしくちょう」新宿町。
江戸時代前期、この町は、城の大手口変更によって東海道が北寄りに付け替えられた時にできた新町である。町は藩主帰城の時出迎場であったほか、郷宿(ごうやど・藩役所などへ出向く村人達が泊まる宿屋)や茶屋があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家などもあった。
このように街角には旧名と由来などの説明文が刻まれた石碑が随所に建っています。歩いている途中で気づいた、その2,3を紹介します。
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万町
町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所(ひきゃくつぎたてしょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が5軒ほどあり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。
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高梨町
東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と10日交代で勤めていた。
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本町
小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていた。江戸時代前期に、この町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅籠が26軒ほどあった。
※「小田原提灯」(おだわらちょうちん)
提灯の一種。童謡「おさるのかごや」に登場する。
東海道の宿場町であった小田原では、旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。(いじょう、「Wikipedia」より)
注:「おさるのかごや」
♪えっさえっさ えっさほいさっさお猿のかごやだ ほいさっさ日暮れの山道 細い道
小田原提灯 ぶらさげてソレ やっとこどっこいほいさっさほーいほいほい ほいさっさ
・・・
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いよいよ小田原宿の核心部へ向かいます。
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老舗の蒲鉾屋さんが建ち並ぶ通り。
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ちょっと横丁に入ると、
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こうした「街かど博物館」があちこちにあります。
※「街かど博物館」とは
小田原には古くから栄えた産業文化を今に伝える地域資産がたくさんあります。かまぼこ、漬け物、菓子、ひもの、塩辛、そして木工などの地場産業がその代表的なものです。工夫を凝らした展示、店主との会話、さらには体験を通して、小田原の産業にかかわるひと・製品・ものづくりの結びつきを知ってもらうことにより、小田原の魅力を高めようとするのが「街かど博物館」です。是非「街かど博物館」めぐりをしてみてください。
【小田原駅周辺エリア】
・塩から伝統館(小田原みのや吉兵衛)
・倭紙茶舗(江島)
・菓子どころ小田原工芸菓子館(栄町松坂屋)
・のれんと味の博物館(だるま料理店)
・漆・うつわギャラリー(石川漆器)
・漬物・佃煮・惣菜工房(田中屋本店)
・砂張ギャラリー鳴物館(柏木美術鋳物研究所)
【旧東海道エリア】
・陶彩ぎゃらりぃ(松崎屋陶器店)
・かまぼこ伝統館(丸う田代)
・ひもの工房(早瀬幸八商店)
・かつおぶし博物館(籠常商店)
・染め織り館(山田呉服店)
・薬博物館(済生堂薬局小西本店)
・梅万資料館(欄干橋ちん里う)
【板橋・早川エリア】
・木地挽きろくろ工房(大川木工所)
・ひもの体験館(カネタ前田商店)
・とうふ工房(下田豆腐店)
・寄木ギャラリー(露木木工所)
・かまぼこ博物館(鈴廣)
(以上、「小田原市」公式HPより)
こんな具合に一軒一軒訪ねて見学し、時には体験学習をさせてもらえる、・・・ユニークな企画です。墨田区でも「小さな博物館」という伝統工芸品や下町らしい味わい深い取り組みがありますが、地元密着型の、実にいいアイデアです。
寄り道ばかりで先に進めません。別の機会にじっくりと。
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江戸時代、「大清水本陣」とその隣にあった「小清水脇本陣」は、本陣を兄が、脇本陣を弟が経営するという関係にあった。その脇本陣の跡には、明治以降、本陣と脇本陣が合併した「古清水旅館」があったが、1996(平成8)年に廃業、2007(平成19)年には取り壊されて、現在は「多世代向賃貸住宅『プラージュ古清水』」となった。
その2階には「脇本陣古清水旅館資料館」がある。
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資料館のようす。(写真は、「瀬戸建設」HPより。)
正面に設置された「小田原空襲」という説明板に注目しました。
8月15日の小田原空襲
1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。
小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記録は一切なく、計画されたものではありませんでした。
しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、 本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
8月15日の小田原空襲で被災した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。
被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並が映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
今から62年前にあった小田原空襲を記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。
2007(平成19)年8月15日
戦時下の小田原地方を記録する会
古清水旅館 館主 清水伊十良
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他にも「小田原空襲の碑」があることがわかりました。
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「甲州道」(国際通り)右側に見えるレンガ壁のお店の壁面にはめ込まれてあるようです。知らずに通り過ぎてしまったので、改めて・・・。
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第二次世界大戦最後の空襲 大南勝彦
その昔 小田原宿は、東海道沿いと甲州街道沿いとに家並みがひろがっていましたが、当家の所は此の両者の交わる地点で、青物町一丁田へと伸びる甲州街道の基点でもありました。
第二次世界大戦、いわゆる太平洋戦争の最後の日の夜半から早暁にかけ、当地はアメリカ空軍B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けました。
一九四五年(昭和二十年)八月十四日夜半、B29一機が来襲。まず照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開、当家は八箇の焼夷弾による直撃を受けましたが、警防団の消火活動で一旦鎮火。しかし十五日午前一時頃炎に包まれました。
高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋は合わせて四〇二戸。罹災者一八四四人。負傷者六五人。死者四八人を数えました。
日本がポツダム宣言受諾を打電したのは八月十日でしたが、その後も交戦状態は続き、無条件降伏を決定したのは八月
十四日、小田原空襲はそのあとに行われたもので、国内の他の数カ所の地域と共に、文字通り第二次世界大戦最後の空襲
でした。
(
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