おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「非常時の言葉 震災の後で」(高橋源一郎)朝日新聞出版

2013-09-10 19:49:21 | 読書無限
 以前紹介した「ぼくらの文章教室」の姉妹編。

 連載中に起こった東日本大震災「3・11」以降、世界に向かって、あるいは世界を受け止めることばはどう変わったのか?(どう変わらざるを得ないのか?) 自問自答しつつ、(それでいて先生だから)読者へ訴えかける「非常時のことば」。高橋センセイの軽妙な文体に込められた自身のことばへのこだわりと、今の軽薄な言葉世界への告発は、すごい。
 そこに、今回の東京オリンピック招致。今や、フクシマは忘れ去られ、大震災を奇貨として「復興」の「冠」で突き進む。


 今の日本。一部の金持ち階層を自作自演の経済成果に浮かれさせ、オリンピック招致をなんとしても実現し、国民の期待感をあおり、さらに、「カジノ」解禁・特区作り、さらに、国民投票の年齢を18歳に引き下げる・・・。福島原発事故でまだ15万人も故郷を離れて生活していることは忘れ去られ、原発再稼働」「原発輸出」・・・。
 これらの政策こそが閉塞感を打破させる特効薬だとばかりマスコミはアベ政権賛美の言動を我先に行っている。
 「パン」。生活保護給付を減額した上に、まるで受給者に物乞い的対応をとることを強いる。まさにお上の恩寵的行為として、社会福祉政策が転換されようとしている。消費税アップ時に、またしても現物支給、現金支給ばらまき策が公明党の発案で行われるかもしれない。一方で、「働かざる者食うべからず」との世論を為政者自らが作り上げていく。
 国民の関心を広く、深く政治や経済、教育に向けさせることを巧みに阻止し(「狂騒」はダメ、「静かに」「静かに」と言論を封じ)自らの野心を満足させていく「手口」。・・・
 実は、「パンとサーカス」の恩恵に預かることができたのは、一部の、市民権を持つローマ市民のみであって、結果的には多く労働者(奴隷)や地方は疲弊し尽くしてしまった。・・・、こうした古代ローマの教訓をどう受け止めるか?
(「パンとサーカス」8/17投稿)

 
 以前投稿した文章の一部。今度は、オリンピック開催決定で、マスコミ挙げての「狂騒」。そして、憲法改「正」などは深く「静か」に進めていく。

 オリンピック招致成否という「非常時」に、商業主義にずっぽりはまった連中を相手にして、「フクシマ原発事故汚染」心配なし! を言葉巧みに語り、それが「見事」うまくいって、悦に入っているアベさん。その言葉の軽さを改めて思う。
 と同時に、言葉への責任と重みが自らにも(支える連中にも)降りかかってくることを十分自覚してもらいたい、との遠吠えすら歯牙にもかけず、それほどは考えていない、まさに「政治的」言葉であったことを改めて認識する。

 高橋センセイなどの言葉へのこだわりに比べて、なんと軽いことよ!

 高橋センセイは、加藤典洋、ジャン・ジュネ、石牟礼道子、川上弘美、内田裕也、堀江敏幸(登場する人々は、常になじんでいる文章家たちですが)他にも・・・、さらには、当時の菅首相が辞めた後の民主党党首選の野田達3人の政治家の言葉、一つ一つを吟味しながら「震災を、原発を語りかけること」の意味と覚悟を模索していく(それは自らの物書きとしての覚え書きでもあるのだが)。

 この国の未来に、生まれてくる子ども達に絶望すら感じる中で、最後に「他人事」という「もの言い」に関わって、

 切り離され、孤立しているのは、「私」や「僕」だけではない。だからこそ、可能性は残されている。ここにいて、あなたたちのことを考えている、と伝えることは可能なのだ。たとえ、それが「こだま」のように、儚いものであったとしても。ことばは、ことばによって打ち立てられた「文章」は、そんな力を持つのだ、とぼくは信じたいのである。

 とつづる。

 朝日新聞の今日の夕刊に二人の詩人(現代詩作家)藤井貞和さんと荒川洋治さんが対論している。「大震災」「原発事故」という現実・未来に対して、詩人、小説家、歌人、劇作家・・・多くの文筆家達が言葉の無力さに襲われる中にあって、どう再び言葉に依拠して投げかける言葉を持ち得るか? そこへの気概をひしひしと感じる。また、感じ取らなければならないと、切に思う。

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