(12:05)JR五日市線「武蔵五日市」駅。
目の前を通りすぎるバス?
実は、このバス。「五日市線・旧岩井支線」廃線後の代行運転を行っている機関車型のバスです。
秋川渓谷と周囲の山々。
「五日市宿」方向へ進む。
この先は「檜原街道」となります。右に分岐して南下する道は「秋川街道」、八王子方面に向かう。
「五日市の市神様」。
五日市の市のはじまりは定かではありませんが、中世末の文書に「五日市」の文字が見られ、この頃には近隣地域の物資交流の場として市が開かれていたと考えられます。江戸時代になると、大消費地江戸の広域商業圏に取り込まれ、炭の市として栄えました。当初は五の日三斎市(月に3回の市)であったものが、十の日も加えて六斎市になったと考えられています。
この市神様は、自然石をそのまま用いたもので、かつては五日市の市の中心に祀られ、市の発展を見守っていました。
都道の拡幅に伴い阿伎留神社の境内に移されていましたが、五日市ひろばの整備に際し、五日市商店街の振興と地域経済の発展を願ってこの地に安置されました。
宿場町としてのようすはありませんが、建物やお店にはそんな雰囲気が。
マンホールには梅の絵柄?
沿道のおうちの庭の梅が少し咲き始めたようす。
「上宿」バス停。 土蔵造り。
宿場は「五日市警察署」付近まで。そこから宿内を振り返る。
帰りに寄り道をします。「五日市憲法草案」碑が「あきる野市五日市出張所」前の「五日市中学校」にあります。
あきる野市の文化財 五日市憲法草案の碑
所在地 あきる野市五日市四〇九番地二
五日市憲法草案は、明治一四年に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案です。東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、昭和四三年に深沢家の土蔵から発見されました。司法、立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に溢れた非常に民主的な内容であり、他の民間草案の中でも屈指のものです。
昭和五四年、この私擬憲法草案を生み出したこれら先人の偉業を顕彰し、後世の人々に広く知ってもらうため、千葉卓三郎の生地宮城県志波姫町(当時)、起草地である五日市町(当時)、墓所の仙台市の三カ所において同時に碑を建設することとなり、この碑は地域の人々の協力のもと、五日市憲法草案顕彰碑建設委員会によって建てられました。
正碑には最もよくその特色を現わす抜粋文六カ条が、副碑背面には学芸講談会の会員三〇名の姓名が刻まれています。
平成一七年一一月一五日設置 あきる野市教育委員会
学校の敷地内なので立ち入ることはできません。
五日市憲法草案抜粋
45日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之ヲ保護ス可シ
48凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ 同一ノ保護ヲ受ク可シ 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ
76子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナルモノトス 然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス
77府県令ハ特別国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ルモノナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス
86民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス
194国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ
(碑文は「kumando.no.coocan.jp/mj/mj090825.html」HPを参照)
この「五日市憲法草案」については、以下の記事が話題となりました。
皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)
宮内記者会の質問に対する文書ご回答
問1 東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが,なお課題は山積です。一方で,皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの1年,印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。
皇后陛下
この10月で,東日本大震災から既に2年7か月以上になりますが,避難者は今も28万人を超えており,被災された方々のその後の日々を案じています。
7月には,福島第一原発原子炉建屋の爆発の折,現場で指揮に当たった吉田元所長が亡くなりました。その死を悼むとともに,今も作業現場で働く人々の安全を祈っています。大震災とその後の日々が,次第に過去として遠ざかっていく中,どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを持ち続けなければと思っています。
・・・
5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
・・・
(この項「宮内庁」HPより)
アベ自公政権のもと、アベの横暴一強政治支配によって、憲法改悪の動きが加速しています。その主な狙いは、「憲法9条に自衛隊条項を加える」ことと「緊急事態条項の規定を盛り込む」こと。
「安保法制」成立、「集団的自衛権」の閣議決定など、現憲法を否定する法案を次々と問答無用の如き強行採決を繰り返し成立させ(決定し)、いよいよトランプ・ポチのアベの「悲願」の実現へなりふり構わず、といった様相。
何とかして策謀を葬り去らなければ、と。
ということを改めて。・・・
以上で終了、(13:11)駅前のおそば屋さんに入って昼食。
蕎麦焼酎をそば湯割で。
目の前を通りすぎるバス?
実は、このバス。「五日市線・旧岩井支線」廃線後の代行運転を行っている機関車型のバスです。
秋川渓谷と周囲の山々。
「五日市宿」方向へ進む。
この先は「檜原街道」となります。右に分岐して南下する道は「秋川街道」、八王子方面に向かう。
「五日市の市神様」。
五日市の市のはじまりは定かではありませんが、中世末の文書に「五日市」の文字が見られ、この頃には近隣地域の物資交流の場として市が開かれていたと考えられます。江戸時代になると、大消費地江戸の広域商業圏に取り込まれ、炭の市として栄えました。当初は五の日三斎市(月に3回の市)であったものが、十の日も加えて六斎市になったと考えられています。
この市神様は、自然石をそのまま用いたもので、かつては五日市の市の中心に祀られ、市の発展を見守っていました。
都道の拡幅に伴い阿伎留神社の境内に移されていましたが、五日市ひろばの整備に際し、五日市商店街の振興と地域経済の発展を願ってこの地に安置されました。
宿場町としてのようすはありませんが、建物やお店にはそんな雰囲気が。
マンホールには梅の絵柄?
沿道のおうちの庭の梅が少し咲き始めたようす。
「上宿」バス停。 土蔵造り。
宿場は「五日市警察署」付近まで。そこから宿内を振り返る。
帰りに寄り道をします。「五日市憲法草案」碑が「あきる野市五日市出張所」前の「五日市中学校」にあります。
あきる野市の文化財 五日市憲法草案の碑
所在地 あきる野市五日市四〇九番地二
五日市憲法草案は、明治一四年に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案です。東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、昭和四三年に深沢家の土蔵から発見されました。司法、立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に溢れた非常に民主的な内容であり、他の民間草案の中でも屈指のものです。
昭和五四年、この私擬憲法草案を生み出したこれら先人の偉業を顕彰し、後世の人々に広く知ってもらうため、千葉卓三郎の生地宮城県志波姫町(当時)、起草地である五日市町(当時)、墓所の仙台市の三カ所において同時に碑を建設することとなり、この碑は地域の人々の協力のもと、五日市憲法草案顕彰碑建設委員会によって建てられました。
正碑には最もよくその特色を現わす抜粋文六カ条が、副碑背面には学芸講談会の会員三〇名の姓名が刻まれています。
平成一七年一一月一五日設置 あきる野市教育委員会
学校の敷地内なので立ち入ることはできません。
五日市憲法草案抜粋
45日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之ヲ保護ス可シ
48凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ 同一ノ保護ヲ受ク可シ 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ
76子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナルモノトス 然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス
77府県令ハ特別国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ルモノナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス
86民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス
194国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ
(碑文は「kumando.no.coocan.jp/mj/mj090825.html」HPを参照)
この「五日市憲法草案」については、以下の記事が話題となりました。
皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)
宮内記者会の質問に対する文書ご回答
問1 東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが,なお課題は山積です。一方で,皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの1年,印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。
皇后陛下
この10月で,東日本大震災から既に2年7か月以上になりますが,避難者は今も28万人を超えており,被災された方々のその後の日々を案じています。
7月には,福島第一原発原子炉建屋の爆発の折,現場で指揮に当たった吉田元所長が亡くなりました。その死を悼むとともに,今も作業現場で働く人々の安全を祈っています。大震災とその後の日々が,次第に過去として遠ざかっていく中,どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを持ち続けなければと思っています。
・・・
5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
・・・
(この項「宮内庁」HPより)
アベ自公政権のもと、アベの横暴一強政治支配によって、憲法改悪の動きが加速しています。その主な狙いは、「憲法9条に自衛隊条項を加える」ことと「緊急事態条項の規定を盛り込む」こと。
「安保法制」成立、「集団的自衛権」の閣議決定など、現憲法を否定する法案を次々と問答無用の如き強行採決を繰り返し成立させ(決定し)、いよいよトランプ・ポチのアベの「悲願」の実現へなりふり構わず、といった様相。
何とかして策謀を葬り去らなければ、と。
ということを改めて。・・・
以上で終了、(13:11)駅前のおそば屋さんに入って昼食。
蕎麦焼酎をそば湯割で。
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