おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その4。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-19 18:49:03 | 五日市街道
                                 「増戸小・中学校」脇の旧道。
                                  

その先、左に折れて現街道に合流します。

(11:30)この辺りから「伊奈宿」となります。

                          

第6話 伊奈宿と五日市街道
▲伊奈石が採れた横沢の山並みと秋川
 五日市街道は、古くは「伊奈みち」と呼ばれていました。「伊奈」とは五日市のすぐ東側に位置した宿場町で、定期市なども開かれ、近隣の村々の中心的な役割を果たしていました。また、近くの山々には「伊奈石」という石材が埋もれており、これに目をつけた多くの石切職人(石工)が伊奈へと移住して腕を競い合いました。なかでも、伊奈の石臼「伊奈臼」は軽くて挽きやすいと評判だったということです。
 天正18年(1590)の徳川氏の関東入国後、江戸城修築の土木工事に伊奈の石工たちが徴用されました。この石工たちが頻繁に江戸へと行き来した道筋が、自然に「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。これが五日市街道の始まりとされています。
 しかし、江戸城の修築工事が終わると、街道は周辺の村の農産物や特産物を江戸へと運ぶ重要な輸送路として発展していきます。特に木炭需要の増加は、炭の産地である檜原村に近い五日市宿の急成長を促し、それまで伊奈宿で開かれていた炭市も五日市宿で開かれるようになりました。こうして伊奈宿と五日市宿の力関係が次第に逆転し、街道もいつしか「五日市道」と呼ばれるようになっていったのです。

(この項、「武陽ガス株式会社・交流の広場」HPより)

「上宿」という名称。

こちらは「上宿自治会館」。

伊奈の市神様」。
 伊奈村は、中世から近世の初期にかけえて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭をはじめ、この地域で産出される石(伊奈石)でつくられた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
 江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石に携わった工人たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
 やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急速に高まりました。すると、木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。さらに、月3回の伊奈村の定期市の前日に五日市村でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃をうけ、伊奈村の人々はこの市の開催日を巡ってしばしば訴えを起こしました。
 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文2年(1622)の年号が刻まれています。伊奈村の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は、地域の方々により今も大切に祀られています。

旧道は「新秋川橋東」の信号を右に折れます。

「新秋川橋」。

 (11:39)「岩走神社」の手前の坂道を下り、「秋川」沿いの道を進みます。
 

「秋川」。

                      

渓谷を見下ろしながらの旧道歩き。

                         


旧道は上を通る広い道に合流し、支流の三内(さんない)川を渡る。
かなり下に流れが。

(11:52)「五日市橋」のたもとで現五日市街道に合流。

「五日市橋」を振り返る。

旧道はそのまま街道を渡り、「正光寺」のところを右折します。(地図ではこの先、右にも旧道らしき道が短くあります。そちらが正しい? )

「貸し蔵」。

 
                              現街道に合流すると、まもなくJR五日市線「武蔵五日市」駅前に。

(12:04)その手前、秋川に沿った道が旧道のようですが。

その道を振り返る。
 この先、左に折れて「五日市宿」に入りますが、その前に、駅前の広場で、小休止。

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