おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR青梅線「牛浜」駅~JR五日市線「武蔵五日市」駅。その1。(「五日市街道」第3日目。)

2019-02-14 19:36:55 | 五日市街道
                                  「玉川上水」。この上流が多摩川からの取水口に。

 「五日市街道」歩きの最終回。昼前にはゴールできそう。早足の人なら「2日」のコース。

「牛浜」駅を下車し、前回のところから(8:57)。

 JR五日市線の踏切を越え、「新奥多摩街道」を横切った先に「玉川上水」に架かる「牛浜橋」に。遠く向こうに真っ白な富士山が見えます。
(↓)

牛浜橋」解説板。
 現在の牛浜橋は、昭和52年3月に架け替えられたものであります。
 牛浜橋は、東京と甲州を結ぶ五日市街道に架かる橋として、馬車や牛車の往来により在来の木橋では破損が多く、管理者の負担は大変でした。
 明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えたことを見聞した村民が、牛浜橋に取り入れ、明治10年12月に、めがねばしと愛称された牛浜橋が建設されました。
 平成4年度に行った玉川上水橋梁群整備では、石と鋳物を用いて歴史的背景を取り入れ、親柱や高欄、歩道舗装の改善などを行いました。

「牛浜橋」を過ぎると一気に多摩川に向かって急坂を下ります。

                                   


正面に富士山。

河川敷に大きな公園が広がります。周囲の山々の案内図。

中央に見えるのが「大岳山」。

      白雪の富士山。

石濱渡津跡」の碑。前に二つ並んでいるのは、旧牛浜橋の親柱。

 ここは、大正時代まであった「牛浜の渡し」の跡。碑の文字が牛浜ではなく石浜となっているのは、1352年(正平7・文和1)新田義貞が足利尊氏を破った戦場跡とする説がもととなっているようです。

解説碑。
石 濱
 勇ましいかな新田の最少郎(新田義貞)
 差原(小手差原)に賊(足利尊氏軍)を駆れば皆な奔狂す
 四十六里(小手差原より石浜まで)風逐を成し
 足利も足躓くは是れ此の場


 足利尊氏は感応3年(1352)閏2月20日に武蔵国人見原(府中市)・金井原(小金井市)で新田勢と対戦した。この時尊氏方は苦戦を強いられ、石浜にのがれた。尊氏は窮地を脱して、28日小手差原(所沢市)・入間河原(狭山市)などで、次々と新田勢を破った。この一連の合戦を武蔵野合戦という。尊氏が逃れた「石浜」の所在地については諸説があり、市内の牛浜であるという説が古くからある。
 
 「石浜」という地名は、隅田川中流にあったお城の名でもあります。

《参考》「石浜城」
 石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。(この項、「Wikipedia」参照)

そこから対岸を望む。

                      

広々とした河川敷の公園。

現在は上流の「多摩橋」で対岸に。公園の出口の所で。

「多摩橋」。正面に富士山。

多摩川の流れ。上流。

                          下流。渡し場付近?

(9:27)「あきる野市」に入ります。

                           対岸の牛浜を望む。

「平沢」交差点で左にカーブ、さらに右に曲がりながら急坂を上っていきます。「多摩橋」以前は「渡し場」から急な坂を上っていたようです。
                       遠くに福生の街並み。

この道が旧道? 

坂道を振り返る。「多摩川」はアップダウンのある難所の一つでした。



1880年代のようす。多摩川の流水路がかなり変化しているようです。渡船場へのほぼ直線の上り下りも大変そう。



2010年代のようす。多摩橋完成で道路も付け替え。旧道は一部残っているか? 下は「五日市線」の鉄橋。


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