おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

問屋場跡。桑名の鋳物。しるべいし。桑名城石垣。・・・(「桑名」駅から「内部」駅まで。その2。)

2015-08-03 22:07:49 | 旧東海道

旧東海道のようす。宿場町らしい建物は見当たりません。



左 舟会所跡
 舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に常宣の申込みをして料金を支払い、乗船した。現在は跡地は定かでない。

右 問屋場跡
 問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継ぎ問屋場とも人間開所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。

通り井跡
 桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれている。

 このように歴史的建造物等については、解説板が設置されています。

風流な店構え「歌行燈」。

歌行燈と志満や(しまや)のこと

 明治の文豪・泉鏡花の描く「歌行燈」は 明治末年の伊勢路、桑名を舞台にして、能芸道のなかに人の生き様をからませ、 男と女を精神的描写をもって表現して居ります。
 その舞台のひとつ饂飩屋(うどんや)で、唐辛子を利して熱いのをやる場面の絶妙さは、心の内側にしみる哀感のあるところです。
 この饂飩屋のモデルが遠い古き日の「志満や」でございます。
 その後大正昭和すぎ平成の今日にも其の風情を大切に、風流うどんそば料理「歌行燈」と名乗る次第でございます。(歌行燈 主人拝)HPより。
 このお店は東京・新宿などにも出店していて、ここがその本店です。

「江戸町」。

案内図。赤い線が旧東海道。

「春日神社」青銅の鳥居。

 春日神社というのは俗称で、桑名神社・中臣神社が正しい社名である。
・・・
 また所在地は神社から正面25m(このところを通称広小路という)T字路の交点にあって、片町に面している。片町は昔の東海道筋でこの鳥居周辺は昭和初め頃まで桑名の賑やかな盛場であった。
 ここに初めて鳥居が建立されたのは、慶長7年(1602)12月13日、時の城主 本多忠勝公の寄進であるが、木造であって、これは51年後(承応2年6月5日)の大風で倒壊してしまった。
その後13年たって、藩主松平定重侯が日本随一の青銅鳥居の創建を企画し、神社修理料の積立金を基本に(慶長金250両と云う)鋳物師辻内善右衛門尉藤原種次に命じた。種次はこの大事業に精根を注ぎ、家産を傾けて見事に成就せしめたのがこの鳥居である。寛文7年(1667)完成。
 様式台輪鳥居、青銅造り、沓石八稜、両柱間隔4m70cm。
 島木及び貫に花輪違いの模様重ね、貫 には上り藤紋10(表裏)両柱の上部に上り藤紋4(表裏)を陽鋳。
 銘文は左右柱の表に「華表巍巍 惟直惟圜 神威可畏 保定萬年」裏に「寛文第七祀八月穀旦」。
 銘の作者は幽巌(儒著味岡喜太夫)、筆者は伯宝(常信寺4代住職)、治工辻内善右衛門種次である。
 この鳥居は寛永年間に建立された日光二荒山神社の青銅鳥居に酷似している(香取秀真氏)が、製作意匠は桑名の方が優秀(伊東富太郎氏)であるという。
 なお、この鳥居は天災のため次の如く災厄にあった が、その都度代々の鋳匠辻内家によって修復されて今日に至っている。
 1.元文5年(1740)大雨のため倒壊 寛延元年(1748)松平忠刻侯再建
 2.明治29年暴風雨のため倒壊 明治32年再建
 3.昭和20年戦災のため火災で黒こげとなる
 4.昭和34年伊勢湾台風のため倒壊
 5.昭和35年当代辻内善平翁(9代)同恒夫(10代)両氏によって8月4日修復 落慶

(以上、HPより)

 「鋳物」は川口と並んで古い歴史と伝統をもつ地場産業のようです。

くわな鋳物 の起源
 慶長6年(1601年)、徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝公が、 伊勢国桑名藩十万石の初代藩主となりました。「くわな鋳物」は忠勝公からの 鉄砲の製造の命をうけ、藩の奨励策のもとで、本格的な、生産が始まったと 言われています。
 江戸時代、桑名には朝廷より鋳物製造を許可された、辻内家をはじめと する三軒の「御鋳物師」(おんいもじ)が存在していたと伝わっています。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居・・・・」と里謡に歌われたという 春日神社の青銅鋳物の鳥居は、高さ約7m、幅約6mで、その堂々たる威容は、 旅人の目を驚かせたと伝えられています。
 この鳥居は、寛文7年(1667年)当時の藩主松平家重公の命を受け、御鋳物師 辻内善右衛門尉藤原種次により 鋳造されたもので、桑名の名物として今も昔を物語ります。
 他にも、神社仏閣の灯籠、梵鐘、鍋釜類、農機具が、「くわな鋳物」で作られました。

明治維新後のくわな鋳物
 時代は明治に移り、それまで、朝廷の許可を必要とした鋳物の製造は、自由に 開業できるようになりました。鋳物も新時代を迎えましたが、すぐには新規開業 をする者はほとんどありませんでした。自由に開業できるとはいえ、そこには、 経験が必要であり、それまでの主従の関係も深いものがあったといわれています。 桑名では、明治20年頃に至って、10工場程度になりました。
 古くから伝わる鋳物の技法のうち、天然産の砂を使って造形する生型法は、 新しい砂を補給しながら、鋳物を低コストで造れるために普及した製法です。 明治20年(1887年)、桑名に隣接する地域(現在の三重県三重郡朝日町小向) で生型法に適した鋳物砂が発見されたことによって、鋳物の大量生産が可能となり、 「くわな鋳物」が躍進する大きな原動力になりました。
 この頃から、「くわな鋳物」は銑鉄を使用した鍋釜・焚口・アイロンなどの家庭用日用品 を生産するようになりました。
 その後、明治36年(1903年)から、製麺機や水道器具など、機械鋳物の製造も始まり、 「東の川口、西の桑名」と呼ばれ、わが国の主要な鋳物産地へと成長しました。
 昭和15年(1940年)頃まで、「くわな鋳物」は日用品を基盤として発達し、 機械鋳物の製造は少なかったのですが、太平洋戦争によって日用品の製造が禁止されて、 機械鋳物への転換を図ります。 「くわな鋳物」の発展に尽くした功労者たちを顕彰した「鋳造報国」の石碑が建立されたのはこの頃です。 それもつかの間、第二次大戦時には空襲により「くわな鋳物」は壊滅的な被害を受けました。 戦後は、復興をはかる中で、原料の銑鉄が手に入らず、航空機廃材のジュラルミンや 散乱するスクラップを集めて鋳造し、生活用品として需要の高い鍋釜に蘇らせるなど、 それまで持っていた技術を生かすことによって、「くわな鋳物」が復活することとなりました。
 昭和25年(1950年)の朝鮮動乱を契機として特需の恩恵も受け、 鋳物製品の他、紡績製品、機械部品、精密機器など工業界全体が活発な生産活動を呈し、 ものづくりの基盤となる多くの産業が成長し今日に至ります。 中でも、琺瑯(ホーロー)鋳物やボールベアリングは桑名で考案された代表的 な製品です。
 昭和40年代になると、「くわな鋳物」は家庭用・モーターのカバーなどの電気機械、 各種機械鋳物を中心に生産されるようになり、工場数は200数十に上り、 生産量も年間20万トン以上、年間生産金額は大企業を除いても300億円を上回る、 県下で最大の産業にまで成長しました。
その後、「くわな鋳物」は、オイルショックや海外製品の台頭、平成20年(2008年) リーマンショック以降の生産量の減少などの影響を受け、平成23年(2011年)頃には、 生産量は年間約3万トン、鋳物事業者は30社ほどに減少しています。
 「鋳物の街くわな」では、たくさんの人が鋳物工場で働いたり、 鋳物に関連する仕事をしたりしていました。 鋳物を生産する際に必要な、原料となる銑鉄や鉄スクラップ、鋳型を造形するために必要な砂 、中子(なかご)、鉄を溶解する際の燃料となるコークス、などを取り扱う事業者、 鋳型を製作する際に必要な木型、アルミ金型を製作する技能者、などが桑名にはたくさんいました。 それらの事業者や技能者も年々減少してきましたが、技術、技能、ノウハウは脈々と 「鋳物の街くわな」の若い後継者に継承されています。
「鋳物の街くわな」には、八間通りのマンホール蓋・九華公園の本多忠勝像・ 住吉入江にかかる玉重橋の高欄支柱・春日神社の鳥居など、沢山の鋳物が 「鋳物の街」をアピールし存在感を放っています。
 現在「くわな鋳物」の種類は多岐にわたっています。デザインや機能性の優れた鋳物 の開発にも取り組んでいます。 カキ氷機・業務用ガスコンロなど全国においても大きなシェアを占めている商品が 多数あります。また、工作機械、電気機械、建設機械などの機械用の素形材鋳物や マンホール鉄蓋などの土木建設用鋳物の生産を行っています。
 「鋳物の街くわな」で生産された「くわな鋳物」は、国内はもとより、商品として、 あるいは輸出する機械の部品となって世界中で使用されています。

(以上、HP参照)

 鳥居の側に立っている石柱。
       「しるべいし」。

 「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。同じものが多度神社の鳥居の横にもあります。
 自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしぬるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります。
 平成23年3月  桑名市教育委員会

その先の左手には「桑名城城壁」の解説板。

桑名城城壁
 正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500メートルが現存し、市の文化財に指定されている。
 積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多くみかけられる。片町に面したところには出隅、入隅があった。各所に堀川に向って狭い通路が設けられているのは、明治以後、廃城になってから便宜上付けられたものであろう。戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。

奥に見えるのが、城壁の一部。

行く手に橋が架かっています。「日本橋」。

沼津宿の先、富士山から振り返る。

ここにも桑名城壁の解説板。

 堀川には小型船がたくさん係留されています。
    
                            「歴史を語る公園」。

 桑名は東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもあった。その上、桑名は熱田宮宿に次いで、東海道中二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口として、賑わいをみせていた。このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である。

         

東海道五十三次 桑名宿
 江戸時代の東海道は、慶長6年(1601)正月に定められ、桑名宿も設けられた。江戸から約96里(約384㎞)、京都から約30里(約120㎞)であった。宮宿(熱田)から海上7里(約28㎞)、四日市宿までは陸上3里8町(約13㎞)。
 七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り、町屋橋を渡って、東海道が続いていた。
 天保14年(1843)調べでは、宿内人口は8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒があった。

そして「三条大橋」。

「常夜燈」。

 突き当たりを右折します。その先、右手に東京の(関東大震災後の)震災復興小学校や戦前の銀行などと同じような印象の建物が見えます。「石取会館」。

       

石取会館(いしどりかいかん)
年代:大正14年(1925)
建築面積163.393平方メートル
鉄筋コンクリート造2階建て、一部1階建
四日市銀行桑名してとして建築された。その後、昭和10年(1935)に桑名信用組合(桑名信用金庫の前身)、昭和30年(1955)には京町支店として使用された。
・・・外観は風除室を設けた以外、建設当時の姿を残しており、北に金庫室を付ける。東南角を局面として、縦長の窓を二層に開ける。南・東面は簡潔で幾何学的な柱状を表し、縦長窓上部には歯飾りを施し、陰影の深い意匠を見せている。

文化庁登録有形文化財。

 現在、この会館は「石取祭」を展示している会館になっています。

桑名石取祭は、国指定重要無形民俗文化財。保護団体名:桑名石取祭保存会

 この行事は、旧城下町桑名の総鎮守、通称春日神社で行われ、町屋川で採取した石を氏神に奉納することを目的とした石取りと呼ばれる行事が祭礼化したものである。
 行事の中心は、8月第一日曜日の本楽とその前日の土曜日の試楽である。土曜日は午前零時より各祭車が鉦・太鼓を叩き始める叩き出しがあり、夜が明けると各町内が春日神社に献石をする。
 夕方は、町練りと称して祭車を曳きまわす。日曜日は午前2時に再び叩き出しがあり、夕方には全祭車が町を練って春日神社前に集合する。この行事は、我が国の山・鉾・屋台の祭の成立過程において独自の展開過程をとったものとして重要な文化財として国指定を受けた祭りである。

        


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 七里の渡し。蟠龍櫓。歌行燈... | トップ | 吉津屋見附跡。矢田立場。安... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旧東海道」カテゴリの最新記事