おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-18 18:29:06 | 八王子絹の道
                            旧道らしい脇道へ。
                             

沿道にはこうした農地も所々に。

 「中常磐」で「町田街道」に合流します。そのまま道なりに進んでしまいましたが、右手に旧道がありました。
(10:42)写真では右手奥の細い道。



1880年代のようす。屈折した道が続きます。



2010年代のようす。↑が旧道? その先も旧道は「桜美林学園」敷地内や住宅街に入り、失われているようです。

 そのまま「町田街道」を右手へ曲がって行くと(左を進む広い道は「八王子町田線」)、両側に「桜美林大学(学園)」キャンパスが広がります。


                      

(11:08)街道筋にある「ダイマル水産」。

賑やかな街並みに入っていきます。

 「上宿」バス停から右折していきます。木曽町を通る道筋で、かつての街道を彷彿させる雰囲気の静かな住宅地を進みます。
 

(11:20)右手に小公園。

                 「上宿公園」。

 

右手に「秋葉神社」。隣には「福昌寺」。

大きなおうち。

    
                  道幅も昔のままのようで、約600㍍続く。

木曽町の今昔。
        

       
1880年代のようす。集落を形成している。下の丁字路が矢倉沢往還(奥州古道)との交差点。家康の遺骸を日光へ移送したときの道筋。




2010年代のようす。かつての道筋をよく残している。上の丁字路は変則的な四つ角になっている。そこにあるお寺が「覚円坊」。

変則的な四つ角へ出ます。

                      来た道を振り返る。

(11:34)右の道をしばらく進むと、「木曽一里塚」跡があります。

              

解説板。
 徳川家康は秀忠に命じて慶長9年(1604)に江戸日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約4kキロメートル)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩をとれるように、榎や松が植えられた。
 町田市内には木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和3年(1617年)に徳川家康の遺櫃が駿河久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚から厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんぴつおなりみち)と呼ばれた。18世紀になると、関東各地から相模国大山阿夫利神社への参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。
木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。

《参考》「小野路一里塚」。(「」HPより)

「木曽一里塚」跡から先ほどの四つ角に戻ります。右手に「覚円坊」。

                  

 
 旧道を振り返る。                    先に進みます。

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