おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-18 19:52:51 | 八王子絹の道
                                「絹の道」。
 この前、かつての職場の同僚たちと飲み会がありました。
 皆さん、お元気です。ま、だいたいが健康問題とか、今の許せない(やるせない)政治(アベ政権)の状況とか、そんな会話の中で、それぞれの趣味の世界、今関わっていることなどの話のついでに街道歩きの話になります。
 ある方から「いっそ本場のシルクロードでも歩いたら」と、年も費用も考えず、そんな話が。まさか今さら中国の奥地、砂漠地帯を歩くということにはならんでしょう、と。
 そこで話は別の話題に。
 帰宅して、そういえば、日本にも身近なところにあったっけ。「シルクロード」が。・・・
 そう、「シルクロード」八王子から横浜まで。
 しかし、調べてみると、すでに失われてしまった道が多い。街道歩きが国道歩きではちょっと。思ったより、右に左に旧道が残っているようです。
 そこで、今回から2,3回に分けて歩いてみることにします。しかし、これからは梅雨時、晴れれば蒸し暑い炎天下。どうなることやら。・・・ 

(「」HPより)

 日本全国街道歩きの達人のHPをよりどころにして歩きます。 

 まず事前学習。『Wikipedia』を参照して。

神奈川往還(かながわおうかん)   注:「絹の道」は、後年名づけられた呼称。
 現東京都八王子市周辺と同神奈川県横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵道、絹の道があるほか、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。経路は現在の町田街道および国道16号に相当する。

注:現「国道16号(東京環状)」は、八王子市鑓水付近からは大きく離れ、「町田街道」さらに「旧国道16号」が旧「神奈川往還」の道筋に近い。

 従来より八王子周辺は多摩郡や甲州・武州各地で生産された生糸の集散地として栄え、この生糸を江戸や多摩郡の各地域へと出荷していたが、江戸時代末期の1859年(安政6年)に横浜港が開港すると貿易が活発になった。海外への貿易品の中心は、生糸や絹製品であったため、輸出のため横浜方面へも出荷が行われるようになり、浜街道と呼ばれるようになった。八王子から町田を経て横浜港までの約40km の街道は、鑓水商人(やりみずしょうにん)と呼ばれる多くの絹商人の往来が盛んとなって、のちに絹の道と称されるほど発展するようになる。
 この浜街道は、現在の町田市相原町字坂下付近と町田市鶴間字大ヶ谷戸付近までの間で二通りの経路に分かれており、ひとつは主流であった現在の町田街道の経路である。八王子を出発し鑓水峠を越えたところで武蔵国多摩郡の相原村(現町田市)に入り、境川の東側(武蔵国内)となる同郡原町田村を中継地として抜け、鶴間村(以上、現東京都町田市)、都筑郡今宿村(現神奈川県横浜市旭区)などを経由して横浜港へ向かっていた。
 もうひとつの経路として、相原村(現在の相原坂下交差点付近)で分岐して境川を渡って相模国高座郡橋本村に入り、同郡の淵野辺村、上鶴間村(以上、現神奈川県相模原市)、下鶴間村(現神奈川県大和市)などを経由した後に再び境川を渡って武蔵国多摩郡の鶴間村に入ったところで上記の経路と合流する現在の国道16号に相当する経路がある。
 但し、上記の原町田を抜ける経路のほうが発展していたことや距離が近かったことなどから、もっぱら裏街道のような存在であった。こちらは後に国道16号(東京環状)として発展することになる。
 かつての浜街道の名残は八王子市鑓水、町田市小山町、町田市原町田(町田駅周辺)のほか、町田市鶴間(横浜町田IC付近)から横浜市旭区川井宿・今宿・鶴ヶ峰周辺までにかけての国道16号線旧道区間に見られる。
 一方相模国を経由するルートでは、第二次世界大戦時に相模原都市建設計画(いわゆる「軍都計画」)が持ち上がり、都市整備によって全く違う道へと姿を変えてしまったため、相模原市内では淵野辺付近から上鶴間付近までの旧16号線と呼ばれる道路や、村富神社付近、西門(相模原)から氷川町までの道路、そして橋本駅北口周辺に見られる程度である。
 明治時代に入り1908年(明治41年)に街道と並行して横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると、絹の運搬は鉄道に取って代わられることとなり、「日本のシルクロード」とまで呼ばれた街道は、次第に廃れていった。

絹の道
江戸時代の幕末から明治時代にかけて、八王子から横浜まで生糸をや絹織物が運んだ裏街道として繁栄し、八王子市の鑓水峠の近くには「絹の道」と刻まれた石碑も建てられている。御殿橋から「絹の道」碑までの約1.5 kmの区間は八王子市の史跡に指定されており、現在も往時のたたずまいを残していて「歴史の道百選」にも選ばれている。
 八王子は「桑の都」とよばれるほど養蚕が盛んで、江戸時代後期以降は生糸や織物の生産が活発になり、「八王子織物」として知られていた。鑓水商人とよばれる八王子の商人たちは、鎖国の時代にオランダの東インド会社と密貿易をおこなうために、絹織物を隠密に運搬していた。「絹の道」とよばれたそのルートは、八王子の鑓水村から小山(現・町田市)を経て市が開かれていた原町田(現・町田市)に至り、神奈川街道を通って横浜の保土谷から東海道の芝生村を経て、関内に達する約40 kmの道のりであった。
 広義の「絹の道」は、この八王子から町田を経て横浜に至る経路全体を指していうこともあるが、町田 - 横浜間は「神奈川街道」「横浜街道」「浜街道」「町田街道」などの別称があるため、狭義の「絹の道」は、鑓水 - 町田間の経路を一般に指す。

鑓水商人
 中央高地、北関東および多摩地域で生産された生糸が八王子や原町田周辺に集められるようになると、特に多摩郡由木村鑓水(現:八王子市鑓水)の商人が仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるようになる。絹取引で富を築いた鑓水商人たちの屋敷が、街道に沿って軒を連ねた。
 江戸幕府は、鑓水の商人たちが生糸を横浜に運んで密貿易をすることを取り締まるために「五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)」を出して、生糸、呉服、水油などの五品目はすべて江戸経由で運ばなければならないように義務付けられたが、これを無視して「絹の道」を通って横浜に運搬する者が後を絶たなかった。

(以下は、「自由民権運動 - BIGLOBE www7a.biglobe.ne.jp/~sagamihara/fuukei/03)harataima/silk.htm」HPより)
自由民権へ道
 一方「絹の道」は、文明開化の道、伝道の道でもあった。生糸の生産者、養蚕家、絹商人たちが外国商人との交渉により、キリスト教や、文明開化の新しい思想に接触してカルチャーショックを受け、それを媒介にして政治的民権的自由を求めて、民権運動が発展してきた。そして「絹の道」が日本での重要な伝播の道となったのである。秩父事件(秩父大宮)、武相困民党事件(相模原・八王子)、群馬事件(妙義山)というような三大暴動および自由民権の政治結社とが「絹の道」に集中している。

注:多摩地域は「五日市憲法」で有名なとおり、明治時代に自由民権運動が盛んだった土地。それが、三多摩が元々の神奈川県から東京都に移管された一つの原因ともいわれている。(相模国→武蔵国)

 前日は、大雨。一転して雨上がりの快晴。6月16日(日)。「甲州街道」歩き以来、久々にJR「八王子駅」下車。

 (9:27)スタート。「甲州街道」の「八日町」交差点から「国道16号線」を南下します。

                     (9:31)「横浜まで41㎞」。

しばらく進むと、(9:40)道路標示では「横浜まで39㎞」ポスト。

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1 コメント

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Unknown (aya7maki)
2019-06-18 21:36:48
こんばんは〜つゆです。

20年くらい前に、ほんとのシルクロードの旅に誘われたことがあります。
もちろん歩きではなく、
100万ぐらい掛かるのと、うちを長く空けることになるので、さすがに諦めました。
パンフ、捨て切れず、どこかにあるはずです。
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