そこで、墨田区内にある、震災復興52小公園計画で実現した公園の現状をぐるっと一回り。
①横川公園
横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。
広場は朝のラジオ体操の会場になっていて、その記念碑があった。
門柱の公園名?が削られていた。
当時の遺構はなさそう。
②若宮公園
「若宮」という名称は、公園の一角に神社があることに由来。
道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、そうです。「外手小学校」は、歴史・伝統のある学校のようです。
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
当時のパーゴラ(つる棚)の考え方はこうして残っていました。
樹木も植えられています。
北側の児童遊戯施設の隣には、簡単な運動器具がある広場が。
ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようです。
③両国公園(建設当時「江東公園」)
「両国小学校」(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。旧名は、「江東小学校」。)
勝海舟の生誕の地の碑。
由来碑。
勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地・男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦海臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。
慶応4年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大統督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年77歳であった。墓は、洗足池畔に建立されている。
平成元年 墨田区 (幕府講武所剣術師範役
元男谷邸跡)
藤棚。東側隅。
支柱に当時の雰囲気を残している。
段差をつけているところなど、かつてのパーゴラの面影を継承しているようだ。
広くて、樹木・灌木も多く、管理も行き届いているようす。京葉道路から少し南に入ったところの住宅に囲まれた公園としては、すばらしい印象。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小」との関連はあまりなさそうだったが、公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすがありました。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいるのでしょうか。
園内には、コンクリート製の半円系の遊具、ロッククライミングのミニ版(板)、海賊船の遊具、海賊の親分のブランコなど、広場のスペースや憩いのスペースなどけっこう多目的に施設が設置されており、子供たちが遊びに来るだけでなく、日中(昼休み)には、のんびりできる公園。
昭和40年代に大改修を行ったとの碑がありました。
1970年代頃の様子。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)赤丸が「両国公園」。道路を挟んで西側が「両国小学校」。一番左(西)に見える半円形はかつてあった「日大講堂」。中央東西の道路は、「京葉道路」。交叉する道路は「清澄通り」。
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