(11:05)街道に戻って東に向かいます。
街道筋らしい旧家がいくつかあります。
「長屋門」風のおうち。
街道はまっすぐ延びています。
「長作」交差点の角にも立派なお屋敷が。
「はばたけ未来へ 長作っ子!」
創立140周年の小学校。
千葉市のマンフォールの絵柄。
「大賀ハス」、市の木「ケヤキ」と市の鳥「コアジサシ」を描いたもの。
最近、新しいデザインのものができたそうです。「マンフォールカード」より。
ちなみに、千葉市の市章は、千葉氏の家紋「月星紋」をモチーフとしているそうです。
緩やかにアップダウンを繰り返して進む街道。
(11:30)「天戸台」交差点。
「四街道」という地名が。
12時前ですが、右手にある中華料理店で昼食、休憩。
再開。(12:08)右手に椎の大木。
御成街道と古木「椎の木」
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37㎞)道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、・・・
ここには、街道に面して、樹齢がそうとう経った椎の木の根元近くに、「六十六部供養塔」天明7年(1787)が建っています。これは、巡礼六部行脚の供養碑で、天戸村の人々の伝える貴重な文化遺産です。・・・
その先、左手に「花島観音入口と石塔」解説板。
・・・御成街道と南は袖ケ浦(東京湾)へ北は印旛沼へ出る「検見川道」が交差しているしているところです。このあたりは享保7年~8年頃まで牧場でした。習志野原は江戸時代徳川幕府が下野牧(野馬)を経営していたところで、 検見川道を行き交う人々は牧場を通って往来してきました。・・・
「検見川道」。
畑地が広がる。
坂を下ると、「花見川」に架かる「天戸大橋」。上流に「花見川大橋」(↓)。
花見川はもともと、現在の花見川区犢橋町など旧千葉郡内を水源として東京湾(江戸湾)に注ぐ小さな川に過ぎなかった。江戸時代1724年以降、印旛沼の洪水対策と干拓を目的として、同じく千葉市横戸町付近を通り印旛沼へと注ぐ勝田川、高津川 (千葉県)等の水系を花見川と結ぶ疏水工事(印旛沼干拓)が幾度となく繰り返された。これらの掘割(疏水)工事は全て失敗に終わった。江戸時代の工事に携わり死亡した人足の共同墓地が、流域の各所に存在する(千葉市花見川区横戸台など)。
戦後になり新たな設計で放水路が起工され、1969年に現在の印旛放水路が完成した。
江戸時代の利根川東遷事業の影響により利根川とつながる事となった印旛沼は、利根川の水位上昇によりたびたび洪水が発生するようになり、周辺の農業等への被害が深刻なものとなっていた。この印旛沼の水位上昇を東京湾に放流するため、中間地点に揚水施設「大和田排水機場」を設置し、一度汲み上げて分水界を越えた先の東京湾へ排水するという特殊な放水路である。
途中の大和田排水機場を境にして印旛沼側の掘割工事により開削された疏水路部分である「新川」と、東京湾側の自然河川である「花見川」とを合わせて「印旛放水路」と呼ぶ。
河川管理上は、花見川より低地である新川が印旛放水路の上流にあたる。これは大和田排水機場の排水が新川から花見川へしかされないためである。
(以上、「Wikipedia」参照)
下流方向。
この付近の今昔。
1880年代のようす。「花見川」は小川にすぎない。周囲に畑地が広がる。
2010年代のようす。「花見川」は整備されていますが、畑地は以前と変わらず。
「犢橋(こてはし)」への上り坂。少し木に覆われた道。
(12:28)「広尾」十字路。交差する道路はかつての軍用鉄道線跡。
(「今昔マップ」より)
街道筋らしい旧家がいくつかあります。
「長屋門」風のおうち。
街道はまっすぐ延びています。
「長作」交差点の角にも立派なお屋敷が。
「はばたけ未来へ 長作っ子!」
創立140周年の小学校。
千葉市のマンフォールの絵柄。
「大賀ハス」、市の木「ケヤキ」と市の鳥「コアジサシ」を描いたもの。
最近、新しいデザインのものができたそうです。「マンフォールカード」より。
ちなみに、千葉市の市章は、千葉氏の家紋「月星紋」をモチーフとしているそうです。
緩やかにアップダウンを繰り返して進む街道。
(11:30)「天戸台」交差点。
「四街道」という地名が。
12時前ですが、右手にある中華料理店で昼食、休憩。
再開。(12:08)右手に椎の大木。
御成街道と古木「椎の木」
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37㎞)道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、・・・
ここには、街道に面して、樹齢がそうとう経った椎の木の根元近くに、「六十六部供養塔」天明7年(1787)が建っています。これは、巡礼六部行脚の供養碑で、天戸村の人々の伝える貴重な文化遺産です。・・・
その先、左手に「花島観音入口と石塔」解説板。
・・・御成街道と南は袖ケ浦(東京湾)へ北は印旛沼へ出る「検見川道」が交差しているしているところです。このあたりは享保7年~8年頃まで牧場でした。習志野原は江戸時代徳川幕府が下野牧(野馬)を経営していたところで、 検見川道を行き交う人々は牧場を通って往来してきました。・・・
「検見川道」。
畑地が広がる。
坂を下ると、「花見川」に架かる「天戸大橋」。上流に「花見川大橋」(↓)。
花見川はもともと、現在の花見川区犢橋町など旧千葉郡内を水源として東京湾(江戸湾)に注ぐ小さな川に過ぎなかった。江戸時代1724年以降、印旛沼の洪水対策と干拓を目的として、同じく千葉市横戸町付近を通り印旛沼へと注ぐ勝田川、高津川 (千葉県)等の水系を花見川と結ぶ疏水工事(印旛沼干拓)が幾度となく繰り返された。これらの掘割(疏水)工事は全て失敗に終わった。江戸時代の工事に携わり死亡した人足の共同墓地が、流域の各所に存在する(千葉市花見川区横戸台など)。
戦後になり新たな設計で放水路が起工され、1969年に現在の印旛放水路が完成した。
江戸時代の利根川東遷事業の影響により利根川とつながる事となった印旛沼は、利根川の水位上昇によりたびたび洪水が発生するようになり、周辺の農業等への被害が深刻なものとなっていた。この印旛沼の水位上昇を東京湾に放流するため、中間地点に揚水施設「大和田排水機場」を設置し、一度汲み上げて分水界を越えた先の東京湾へ排水するという特殊な放水路である。
途中の大和田排水機場を境にして印旛沼側の掘割工事により開削された疏水路部分である「新川」と、東京湾側の自然河川である「花見川」とを合わせて「印旛放水路」と呼ぶ。
河川管理上は、花見川より低地である新川が印旛放水路の上流にあたる。これは大和田排水機場の排水が新川から花見川へしかされないためである。
(以上、「Wikipedia」参照)
下流方向。
この付近の今昔。
1880年代のようす。「花見川」は小川にすぎない。周囲に畑地が広がる。
2010年代のようす。「花見川」は整備されていますが、畑地は以前と変わらず。
「犢橋(こてはし)」への上り坂。少し木に覆われた道。
(12:28)「広尾」十字路。交差する道路はかつての軍用鉄道線跡。
(「今昔マップ」より)
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