(13:03)「鎌倉橋」の碑。この碑の手前を右折し、「川口宿」に入ります。
「鎌倉橋」の解説板。
日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されました。鎌倉街道中道が通っていた頃より、この地は奥州への要所でした。『義経記』には、源義経が鎌倉に向かう際に小川口(現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。
御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624~44)といわれています。
荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。
川口宿
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒であった。また、川口宿は岩淵宿と合宿で、月の内1日~15日の問屋業務は川口宿が勤めた。
江戸時代初期から鍋釜類の鋳物業が栄え、宿の裏街を形成していた。
「日光御成道」。
荒川の開削・護岸工事でこのあたりは大きく変貌しています。日光御成道(旧道)は、河川敷に。
1880年代のようす。中央下が渡し場。荒川の自然堤防が上方に。桑畑北側の小川に架かる橋が「鎌倉橋」?
現在のようす。中央の橋が「新荒川大橋」。川幅が広がり、河川敷が整備されています。
街道沿いの商家などがいくつか残っています。
(13:13)広い通りに出ると、緑地があります。「川口宿絵図」。
解説版。
川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのためにこのような「吹き井戸」があった。大正12年、ユニオンビールが川口に進出したのも、この水に拠ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図絵に描かれた「鍋屋の井」である。
複雑になったロータリーを回り込むように進み、「岩槻街道」に合流します。
(13:21)「芝川」に架かる「上の橋」。
「倉田回漕店」(↓)。
物流業者さんのようですが、ネーミングには歴史的な背景があるようです。
もともと「回漕店」は、船問屋か廻船問屋・廻漕問屋とも呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて、河岸や港において廻船などの商船を対象として様々な業務を行った問屋のことでした。
この付近は、「芝川」沿いにあった「倉田河岸」といわれ、水運を生かし、川口名産の鋳物の運送等に当たっていたと思われます。
「川口元郷」。
旧元郷村には「一里塚」がありました。江戸日本橋より4里目、本郷追分より3里目。跡碑があるようですが、確認できず。
この先、直線道路が続きます。
1880年代のようす。→が「上の橋」。○が「錫杖寺」。「芝川」の幅広い自然堤防が見られます。
現在のようす。
(13:33)右手に豪壮な建物。
旧田中家住宅
旧田中家住宅は大正時代に建設された県下有数の本格的洋風住宅です。大正10年(1921)に上棟し大正12年(1923)に竣工した木造煉瓦造三階建の洋館(1)と、昭和9年(1934)に増築された和館(2)の他、文庫蔵(3)、茶室(4)、池泉回遊式庭園(5)、煉瓦塀(6)により構成されています。
洋館
壁に化粧用煉瓦を貼り、デザイン性に優れた外観を呈する本格的洋風住宅です。迎賓のための建物として建設されました。
正面玄関には帳場と神棚を設け、商家としてのスタイルを残し、二階には洋間の書斎と座敷を設け、洋風を基調としながらも、一部に和風を取り入れたつくりとなっています。
三階は南側に大広間を設けています。応接間は一階に配置するのが通常ですが、田中家では眺望を重視して三階に配置したものと思われます。
和館
煉瓦は長方体をしており、積み方にはいくつかの様式があり、それぞれの積み方が発達した国の名をとってイギリス積み、フランス積み、アメリカ積みなどがあります。
日本では幕末から明治初年に欧米からこれらの様式が伝わり、建築技術ではイギリス積みが、土木技術ではフランス積みが主に用いられました。
旧田中家住宅に用いられたイギリス積みは、長手ばかりの段と小口だけの段を交互に重ねます。堅実で合理的な積み方です。
庭園
昭和48年(1973)の改修工事で、味噌醸造蔵の跡地に造営された本格的な池泉回遊式日本庭園です。和館や茶室から眺められるよう配慮されており、池、枯山水、洲浜、灯篭、手水鉢などを配し、建物の重厚さをさらに際立たせています。
(以上、「旧田中家住宅」HPより)
直線道路がまだまだ続きます。
1880年代のようす。縄手道。 現在のようす。当時と同じ、直線道路です。
川口市内のマンホール。
鋳物工業で知られ、映画「キューポラのある街」の舞台にもなった街。 デザインのモチーフは市の花「鉄砲ユリ」と「竹ざる」。 鉄砲ユリはラッパ型の花に特徴があります。竹ざるは明治初期に盛んに作られた特産品です。
「日光御成道」は次第に「川口宿」から離れて「鳩ヶ谷宿」へ向かいます。かつて「川口」といえば「キューポラのある街」でしたが、沿道にはそうしたキューポラのある鋳物工場は目につきません。高層マンションが立ち並ぶ街並みに大変貌しています。
キューポラのある街 1962年(昭和37年 )公開。
原作:早船ちよ
脚色:今村昌平 浦山桐郎
音楽:黛敏郎
監督:浦山桐郎
出演:東野英治郎
吉永小百合
菅井きん
浜田光夫
北林谷栄
殿山泰司 ・・・
あらすじ:
中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女である。何事にも前向きで、高校進学を目指すジュンだが、父・辰五郎(東野英治郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。
自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任教師の助力で修学旅行にも行けることになった。しかし、ようやく再就職した父親は、待遇が不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかけた。
全日制の高校進学を取りやめて、就職を決断するジュン。北朝鮮への帰還問題で苦悩する朝鮮人の一家や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、自立して働きながら定時制で学び続けることに意義を見出したのだった。(「Wikipedia」より)
(Amazonより)
懐かしい映画の一つです。
キューポラのある街。(「東京新聞」より)
(13:53)「鳩ヶ谷宿」までけっこう距離があります。「たてば」。この施設の名のようにこの付近には「立場」があったのでしょうか?
このかん、「十二月田=しわすだ」とか「樋の爪=ひのつめ」とかの変わった地名が続きます。
注:「しわすだ」=12月晦日(しわすみそか)に由来。「ひのつめ」=晦日の前日の29日(ひのつめ)に由来しているようです。
まだまだ直線道路。埼玉高速鉄道「南鳩ヶ谷駅」を過ぎ、新芝川に架かる「鳩ヶ谷大橋」を越えてしばらく進むと、旧道は右に分かれていきます。
今回はここまで。「赤羽駅」行きのバスに乗って戻りました。
「鎌倉橋」の解説板。
日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されました。鎌倉街道中道が通っていた頃より、この地は奥州への要所でした。『義経記』には、源義経が鎌倉に向かう際に小川口(現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。
御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624~44)といわれています。
荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。
川口宿
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒であった。また、川口宿は岩淵宿と合宿で、月の内1日~15日の問屋業務は川口宿が勤めた。
江戸時代初期から鍋釜類の鋳物業が栄え、宿の裏街を形成していた。
「日光御成道」。
荒川の開削・護岸工事でこのあたりは大きく変貌しています。日光御成道(旧道)は、河川敷に。
1880年代のようす。中央下が渡し場。荒川の自然堤防が上方に。桑畑北側の小川に架かる橋が「鎌倉橋」?
現在のようす。中央の橋が「新荒川大橋」。川幅が広がり、河川敷が整備されています。
街道沿いの商家などがいくつか残っています。
(13:13)広い通りに出ると、緑地があります。「川口宿絵図」。
解説版。
川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのためにこのような「吹き井戸」があった。大正12年、ユニオンビールが川口に進出したのも、この水に拠ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図絵に描かれた「鍋屋の井」である。
複雑になったロータリーを回り込むように進み、「岩槻街道」に合流します。
(13:21)「芝川」に架かる「上の橋」。
「倉田回漕店」(↓)。
物流業者さんのようですが、ネーミングには歴史的な背景があるようです。
もともと「回漕店」は、船問屋か廻船問屋・廻漕問屋とも呼ばれ、江戸時代から明治時代にかけて、河岸や港において廻船などの商船を対象として様々な業務を行った問屋のことでした。
この付近は、「芝川」沿いにあった「倉田河岸」といわれ、水運を生かし、川口名産の鋳物の運送等に当たっていたと思われます。
「川口元郷」。
旧元郷村には「一里塚」がありました。江戸日本橋より4里目、本郷追分より3里目。跡碑があるようですが、確認できず。
この先、直線道路が続きます。
1880年代のようす。→が「上の橋」。○が「錫杖寺」。「芝川」の幅広い自然堤防が見られます。
現在のようす。
(13:33)右手に豪壮な建物。
旧田中家住宅
旧田中家住宅は大正時代に建設された県下有数の本格的洋風住宅です。大正10年(1921)に上棟し大正12年(1923)に竣工した木造煉瓦造三階建の洋館(1)と、昭和9年(1934)に増築された和館(2)の他、文庫蔵(3)、茶室(4)、池泉回遊式庭園(5)、煉瓦塀(6)により構成されています。
洋館
壁に化粧用煉瓦を貼り、デザイン性に優れた外観を呈する本格的洋風住宅です。迎賓のための建物として建設されました。
正面玄関には帳場と神棚を設け、商家としてのスタイルを残し、二階には洋間の書斎と座敷を設け、洋風を基調としながらも、一部に和風を取り入れたつくりとなっています。
三階は南側に大広間を設けています。応接間は一階に配置するのが通常ですが、田中家では眺望を重視して三階に配置したものと思われます。
和館
煉瓦は長方体をしており、積み方にはいくつかの様式があり、それぞれの積み方が発達した国の名をとってイギリス積み、フランス積み、アメリカ積みなどがあります。
日本では幕末から明治初年に欧米からこれらの様式が伝わり、建築技術ではイギリス積みが、土木技術ではフランス積みが主に用いられました。
旧田中家住宅に用いられたイギリス積みは、長手ばかりの段と小口だけの段を交互に重ねます。堅実で合理的な積み方です。
庭園
昭和48年(1973)の改修工事で、味噌醸造蔵の跡地に造営された本格的な池泉回遊式日本庭園です。和館や茶室から眺められるよう配慮されており、池、枯山水、洲浜、灯篭、手水鉢などを配し、建物の重厚さをさらに際立たせています。
(以上、「旧田中家住宅」HPより)
直線道路がまだまだ続きます。
1880年代のようす。縄手道。 現在のようす。当時と同じ、直線道路です。
川口市内のマンホール。
鋳物工業で知られ、映画「キューポラのある街」の舞台にもなった街。 デザインのモチーフは市の花「鉄砲ユリ」と「竹ざる」。 鉄砲ユリはラッパ型の花に特徴があります。竹ざるは明治初期に盛んに作られた特産品です。
「日光御成道」は次第に「川口宿」から離れて「鳩ヶ谷宿」へ向かいます。かつて「川口」といえば「キューポラのある街」でしたが、沿道にはそうしたキューポラのある鋳物工場は目につきません。高層マンションが立ち並ぶ街並みに大変貌しています。
キューポラのある街 1962年(昭和37年 )公開。
原作:早船ちよ
脚色:今村昌平 浦山桐郎
音楽:黛敏郎
監督:浦山桐郎
出演:東野英治郎
吉永小百合
菅井きん
浜田光夫
北林谷栄
殿山泰司 ・・・
あらすじ:
中学3年の石黒ジュン(吉永小百合)は、鋳物工場の直立炉(キューポラ)が立ち並ぶ埼玉県川口市の鋳物職人の長女である。何事にも前向きで、高校進学を目指すジュンだが、父・辰五郎(東野英治郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車で、修学旅行に行くことも諦めていた。
自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任教師の助力で修学旅行にも行けることになった。しかし、ようやく再就職した父親は、待遇が不満で仕事をやめてしまった。絶望したジュンは女友達と遊び歩き、危うく不良少年たちに乱暴されかけた。
全日制の高校進学を取りやめて、就職を決断するジュン。北朝鮮への帰還問題で苦悩する朝鮮人の一家や、貧しくとも力強く生きる人々との交流を通じて、ジュンは、自立して働きながら定時制で学び続けることに意義を見出したのだった。(「Wikipedia」より)
(Amazonより)
懐かしい映画の一つです。
キューポラのある街。(「東京新聞」より)
(13:53)「鳩ヶ谷宿」までけっこう距離があります。「たてば」。この施設の名のようにこの付近には「立場」があったのでしょうか?
このかん、「十二月田=しわすだ」とか「樋の爪=ひのつめ」とかの変わった地名が続きます。
注:「しわすだ」=12月晦日(しわすみそか)に由来。「ひのつめ」=晦日の前日の29日(ひのつめ)に由来しているようです。
まだまだ直線道路。埼玉高速鉄道「南鳩ヶ谷駅」を過ぎ、新芝川に架かる「鳩ヶ谷大橋」を越えてしばらく進むと、旧道は右に分かれていきます。
今回はここまで。「赤羽駅」行きのバスに乗って戻りました。
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