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左手に「かやんば高札場」跡。
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南住民五ヶ条
一、私達は地域の行事に積極的に参加します。
一、私達はごみ収集のルールを守ります。・・・
遠江国 萱場村
静かで落ち着いた住宅街を東海道は進みます。かつては松並木が旅人を誘った街道だったのでしょう、今はまったくその面影はありません。
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東海道松並木 跡
この付近には、かつて東海道の松並木がありました。江戸時代の「東海道宿村大概帳」によると、中野町村の松並木の延長は北側百間、南側四十間とあり、町内は家が建ち並んでいたため、松並木はこの一帯だけにあったようです。当時は街道の北側に高さ1メートルほどの土堤があり、その上に松の木が枝を広げていました。
これから西へ行った和田小学校周辺には、今でも松並木が残り、当時の街道風情を感じることができます。
中野町を考える会
右手には大きな屋敷があります。天竜川の治水に生涯をかけた金原明善の生家です。
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天保3(1832)年、遠江国長上郡安間町(現在の浜松市安間町)に産まれた金原明善は、18歳~37歳の約20年間に大洪水を5回も経験し、洪水の恐ろしさを身を持って知っていました。当時の天竜川は「暴れ天竜」と多くの人々に恐れられ、水害に見舞われるたびに作物は奪われ、しかもその翌年は飢饉に襲われるのが常でした。
慶応4年5月の雨が降り続いた時には、明善は寝食を忘れて水害を防ぐために奔走し、堤防を警戒していましたが、ついに5月19日大洪水となり最悪の事態となってしまいました。
明善は不眠不休の救助活動を続けながら、裁判所に要求して旧幕府の所有林だった磐田郡井戸ヶ谷の山林から工事用資材の伐り出しの認可をとり、浜松藩には難民のための食料を放出させたほか、応急工事が必要な箇所には自分の資金を寄付するなど、率先して復旧作業に努めたのです。この行動が明治政府に認められ、明善は天竜川水防掛に登用され、明治5年には浜松県の天竜川普請専務に、翌年には総取締を任されるようになりました。
さらに明善は、治水事業を目的とする治河協力社を設立。しかし、国による改修費の大幅削減により、明治8(1875)年に自己の財産をなげうって約7kmの堤防工事を行ったのです。翌年には水防に関する一切を任されるようになり、鹿島から掛塚にいたる間の川幅を定め、堤防を改修する位置を決めました。これが堤防改良のはじまりです。
ところが、明善はそれだけでは満足しませんでした。川の氾濫を治めるためには健全な森林を作る必要があるとし、明治19(1886)年、54歳の時、オランダ人の河川技術者リンドウと天竜川上流の森林調査を行い、豊田郡瀬尻村の御料林を借りて植林に着手したのです。雑草を焼き、根を取り除き、岩を火薬で爆破するなどして新開など6ヶ所の苗圃でスギやヒノキ302,800本を育て、同時に新しく造った林道を含め66kmの道を開きました。はじめは彼の行動を非難する人たちも大勢いましたが、明善は少しも気にせず森づくりに励みました。3年かけて育てた苗を自分で担いで登ったり、山小屋に寝泊まりしながら一生懸命に植林をする明善の姿は、次第に人々の心を動かし、多い時には800人もの人々が手伝いに集まったそうです。こうして292万本のスギやヒノキが山で育ち、今では天竜美林と呼ばれるほど全国的にも知られる森となったのです。しかも、明善はこれらの木すべてを国に差し出し、その後も北遠の森だけでなく、伊豆の天城山、富士山麓など県下各地で森作りの指導をするなど、世のため人のために働き続け、多くの人々に尊敬されました。
森作りに捧げた明善の生涯は92歳で幕を閉じましたが、各地の山々に植えられた木々はその後も生長を続け、一部は今でも記念林や学術参考林として残っています。また、明善が最初に植林した佐久間町の森には明善神社が祀られ、彼が産まれた浜松市安間町の家が一般公開されているほか、生家前の金原明善記念館では明善の資料を展示するなど、治水や森作りに貢献した彼の偉業をたたえています。
(以上、
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母屋の裏手にある蔵もやはり「伊豆石」造りの蔵でした。
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どっしりと落ち着いた趣の建物。
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向かい側の「記念館」の庭にある句碑。
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「さすかたは なくてただ飛(ぶ) ほたるかな 蒼山」。
しばらく進んで、県道312号と合流します。その付近、右手のフェンスの中に、「安間(あんま)一里塚」跡の標柱があります。
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棒杭のようなものに、すっかりかすれてしまった「一里塚跡」の文字。
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「安間橋」を渡ります。
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「国道一号線」のガードをくぐって県道をそのまま進みます。しばらくすると、東海道名残の松並木。
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「東海道の松並木」
旧萱場村から植松村まで、東海道筋のうち町家が並ぶ場所以外には、松並木が整備された。江戸時代を通じて、沿線の村々によって維持されていた。現在は道路の拡幅、沿線の開発などの事情で松並木は減少している。
浜松市東区役所
「和田尋常高等小学校入り口」標石。
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現「和田小学校」の入口のところにあります。
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宿場と宿場の間に設置された休息所。旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。多くの場合、茶屋があって土地の名物を販売していた。
ここは、見附宿と浜松宿の間に置かれた。藤棚があって旅人を楽しませたと伝わる。
浜松市東区役所
藤棚はここにはないが、松の古木が横たわっています。
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「一笑整骨院」。気に入った名称です。
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「寺道」。
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左手にある「道標」。
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「弥次喜多も通った道だよこの辺り」。しゃれてます。
道幅も広くなり、車も人の通りも多くなってきました。しだいに浜松の繁華街に近づいてきました。
右側に大きな建物。「浜松アリーナ」。その前に広重の浮世絵が。
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浜松宿 宿内人別 五千九百六十四人 本陣六、旅籠九十四「東海道宿村大概帳」より。戦火を免れた徳川ゆかりの社寺が今も残り、伝統ある凧揚げ祭りは名高い。
この絵は、「東海道五十三次看板」製作に励んでいる方の作品だそうです。(以下、「東海道五十三次看板製作」HP参照。)
趣味で、特技を生かし東海道の旧宿場町に歌川広重の浮世絵を看板にして、設置させていただいています。平成十年、鈴鹿市石薬師宿を皮切りに、平成十九年九月現在三十二の宿場に設置しました。
夢は日本橋から三条大橋までの全宿場制覇ですが、夢は夢。 どこまで行けるかわかりませんが、出合いを大切に無理せず、妻と二人三脚で楽しい旅を続けます。
メッセージやメールをお待ちしています。
一般建築塗装・看板 近藤工芸 三重県鈴鹿市伊船町2569-1
電話とFAX: 059-371-0407 メール: reitin@mecha.ne.jp
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ここでも「凧揚げ」が地元の風物なのですね。
「浜松アリーナ」前の東海道。
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東海道五十三次之内 濱松 冬枯ノ図 / 歌川 広重
東海道は半ばを越えた。冬枯の引馬野の原は寂しい。一本杉の傍らでたき火を囲んで、たばこを吸いながら暖をとる農夫たちのところへ、旅人が冷えた体を暖めようと話しかけて来る。世間話に花が咲く。舞い上がる煙と大木を中心に野趣が描かれている。遠景に浜松城、その左右に町が広がっている。
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大正期の浜松「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より
(「知足美術館」HPより)
大正期の写真が浜松宿の東の入口である「馬込橋」あるいは、宿場の中心地近く、現在の遠州鉄道の高架線下付近だとすれば、今は、国道152号線として幅広い道路となり、いっそう賑やかな町並みが続き、松の姿もまったくありません。
「子安」交差点で通称「自動車街通り」という国道152号線と合流し、地下道を通って反対側に出ます。しばらくは「国道152号線」を行きます。
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琵琶橋。
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沿道には、街道筋らしい町家が残っています。
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「馬込一里塚跡」。
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東海道馬込一里塚跡
江戸日本橋より六十五里(約260㎞)の所。道の両側に五間(約9m)四方の土を盛り上げて塚となし、松・榎などを植え、旅人の目標とした。
塚は明治10年(1877)頃には取り壊されたという。
「馬込一里塚」の名称は静岡県史跡名勝天然記念物調査報告第三集(昭和2年)にみられる。また資料によっては「向宿一里塚」ともいう。
この辺りは中世には宇間郷向宿、江戸時代は向宿村、現在は相生町という。
浜松市中区役所
この説明板は、浜松東署の入口付近にあります。まだ「浜松宿」内というわけではありません。この先の「馬込橋」が東の入口にあたります。
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