振り返って望む。右手に旧「和中散本舗」の建物がみえます。
「間の宿・六地蔵」から「目川」方面へ。北西方向を望む。
いったん県道に合流して、すぐ右の道を進むと、左手に「六地蔵一里塚跡」碑。
日本橋から117里目の一里塚。
「東海道名所図会 梅の木」
江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)がおかれ、梅木(うめのき)立場と称された。「ぜさい」を名のる道中薬の「和中散」を商う店があることが京・大坂・江戸まで知れ渡っていた。
当時の「和中散本舗」が現在と変わらぬたたずまいで載せられています。
整えられた植え込みの中に新しい石碑が建っています。
その先から屋号が登場します。紅殻塗りのおうち。
「東海道六地蔵村両替商 ○茶太」。
「修青学校跡 巡査駐在所跡」。
「行商旅籠 出羽屋」。
「行商」といえばすぐ「近江商人」を連想します。
近江(今の滋賀県)を本拠地として地元の特産品を中心に全国各地へ行商に出かけていった商人が「近江商人」。
近江商人は江州商人(ごうしゅうしょうにん)とも。
主に鎌倉時代から昭和時代(特に戦前期)にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人。大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。現在でも俗に、滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。
愛知郡(愛知川・枝村)、蒲生郡(八幡・日野)、神崎郡(五箇荘・能登川)などの出身者が多数。なかでも得珍保(延暦寺領荘園)を拠点とした保内商人の活動が近江商人の前駆となっている。初期の頃は京都・美濃国・伊勢国・若狭国などの近隣地域を中心に行商を行っていたが、徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地(現在の北海道)で場所請負人となる者もあった。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多い。
その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳や陰徳善事を重んずる者が多かった。様々な規律道徳や行動哲学が生み出され、各商家ごとに家訓として代々伝えられた。成功した近江商人が私財を神社仏閣に寄進したり、地域の公共事業に投資したりした逸話も数多く残されている。
当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。
近江商人の思想・行動哲学
・三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」
売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならない。三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の中村治兵衛が書き残した家訓であるとされる。ただし、「三方良し」は戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、昭和以前に「三方良し」という用語は存在しなかった
・始末してきばる
「始末」とは無駄にせず倹約することを表すが、単なるケチではなくたとえ高くつくものであっても本当に良いものであれば長く使い、長期的視点で物事を考えること。また「きばる」とは本気で取り組むこと。
・利真於勤
利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方であり、営利至上主義の諫め。陰徳善事
人知れず善い行いをすることを言い表したもの。自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。
※近江商人の成り立ちに関し「(松尾)芭蕉の教導訓示によりて出来たもの」と言う勝海舟の談話が残されている。
近江商人の流れを汲むとされる主な企業
・大丸
・高島屋(高島郡出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が創業。社名は高島郡に由来)
・藤崎(創業者藤治右衛門は日野出身との説がある)
・山形屋(近江商人の血を引く羽前庄内出身の源衛門が創業)
・トヨタ自動車(彦根出身の豊田利三郎が初代社長。また、グループ創始者豊田佐吉は後述の児玉一造に多くの支援を受けた)
・伊藤忠商事・丸紅(犬上郡出身の伊藤忠兵衛が創業)
・住友財閥(初代総理事広瀬宰平は野洲郡出身、2代目伊庭貞剛は蒲生郡出身)
・双日
・トーメン(彦根出身の児玉一造が中心となって創業)
・兼松(前身の一つである江商は、犬上郡出身の北川与一が創業)
・ヤンマー(伊香郡出身の山岡孫吉が創業)
・西武グループ(愛知郡出身の堤康次郎が創業)
・日清紡
・東洋紡(前身の一つである金巾製織は、滋賀県知事の勧奨から複数の近江商人が創業)
・東レ
・日本生命保険(彦根出身の弘世助三郎の呼びかけで創業)
・ワコール(仙台出身神崎郡育ちの塚本幸一が創業。社名は「江州に和す」に由来)
・西川産業(八幡出身の西川仁右衛門が創業)
・武田薬品工業(日野発祥の薬種仲買商である近江屋喜助からののれん分け)
・白木屋(長浜出身の大村彦太郎が創業。1967年に東急百貨店に吸収)
・三中井百貨店(神崎郡出身の中江勝次郎が創業。1945年の終戦とともに消滅)
・ニチレイ(前身である帝国水産は、野洲郡出身の西川貞二郎らが創業)
・西沢本店「アルバ」「トゥインクル」(ルーツが異なる同名の別企業であるが、どちらも滋賀県内で創業したのち佐世保へ移ったという共通点がある)
(以上、「Wikipedia」参照)
そうそうたる企業がずらり。驚くべし! 「近江商人」!
そういえば、現役時代。そろそろ欲しいなあと思っていて、何人も営業マンが来るのですが、今一つ乗る気にならない。
するとタイミングよく、必ず御用聞きにくる営業「じいさん」がいました。ストレートに売り込むのではなく、あちこちの同業者の噂とか実態とかの情報をおもしろおかしく話しながら、実に急所をついていて、うまくこちらの心をくすぐり、結局、その商品を採用することになります。
その人につけたあだ名が「近江商人」。的確かどうかはかなり語弊がありますが・・・。あの方は今どうしているか?
現・古をうまくマッチさせた建物。紅殻塗りもおしゃれ。
そしてさりげなく自己主張する「飛び出し」坊や。
右手にある「西厳寺」には「肩がえの松」。
小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。
旅人足等が子の松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である。
しばらくは古い家並みがちらほら。「東海道小野村 飴屋」。
町並みを振り返って望む。
しばらく進み、「名神高速・栗東IC」と「国道1号線・8号線」をつなぐ道路のガードをくぐると、
「行者堂」。ここは「手原」の地。
右手に「国指定の有形文化財」の建物があります。
「東海道手原村 手原醤油 塩屋藤五郎」。
その先、左手に「稲荷神社」。「手ハラベンチ」が。
ちょうど午後1時。手のひらのベンチ。座り心地はいまいちですが、そこに座っておにぎりを食べながら休憩。
「間の宿・六地蔵」から「目川」方面へ。北西方向を望む。
いったん県道に合流して、すぐ右の道を進むと、左手に「六地蔵一里塚跡」碑。
日本橋から117里目の一里塚。
「東海道名所図会 梅の木」
江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)がおかれ、梅木(うめのき)立場と称された。「ぜさい」を名のる道中薬の「和中散」を商う店があることが京・大坂・江戸まで知れ渡っていた。
当時の「和中散本舗」が現在と変わらぬたたずまいで載せられています。
整えられた植え込みの中に新しい石碑が建っています。
その先から屋号が登場します。紅殻塗りのおうち。
「東海道六地蔵村両替商 ○茶太」。
「修青学校跡 巡査駐在所跡」。
「行商旅籠 出羽屋」。
「行商」といえばすぐ「近江商人」を連想します。
近江(今の滋賀県)を本拠地として地元の特産品を中心に全国各地へ行商に出かけていった商人が「近江商人」。
近江商人は江州商人(ごうしゅうしょうにん)とも。
主に鎌倉時代から昭和時代(特に戦前期)にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人。大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。現在でも俗に、滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。
愛知郡(愛知川・枝村)、蒲生郡(八幡・日野)、神崎郡(五箇荘・能登川)などの出身者が多数。なかでも得珍保(延暦寺領荘園)を拠点とした保内商人の活動が近江商人の前駆となっている。初期の頃は京都・美濃国・伊勢国・若狭国などの近隣地域を中心に行商を行っていたが、徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地(現在の北海道)で場所請負人となる者もあった。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多い。
その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳や陰徳善事を重んずる者が多かった。様々な規律道徳や行動哲学が生み出され、各商家ごとに家訓として代々伝えられた。成功した近江商人が私財を神社仏閣に寄進したり、地域の公共事業に投資したりした逸話も数多く残されている。
当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。
近江商人の思想・行動哲学
・三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」
売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならない。三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の中村治兵衛が書き残した家訓であるとされる。ただし、「三方良し」は戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、昭和以前に「三方良し」という用語は存在しなかった
・始末してきばる
「始末」とは無駄にせず倹約することを表すが、単なるケチではなくたとえ高くつくものであっても本当に良いものであれば長く使い、長期的視点で物事を考えること。また「きばる」とは本気で取り組むこと。
・利真於勤
利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方であり、営利至上主義の諫め。陰徳善事
人知れず善い行いをすることを言い表したもの。自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。
※近江商人の成り立ちに関し「(松尾)芭蕉の教導訓示によりて出来たもの」と言う勝海舟の談話が残されている。
近江商人の流れを汲むとされる主な企業
・大丸
・高島屋(高島郡出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が創業。社名は高島郡に由来)
・藤崎(創業者藤治右衛門は日野出身との説がある)
・山形屋(近江商人の血を引く羽前庄内出身の源衛門が創業)
・トヨタ自動車(彦根出身の豊田利三郎が初代社長。また、グループ創始者豊田佐吉は後述の児玉一造に多くの支援を受けた)
・伊藤忠商事・丸紅(犬上郡出身の伊藤忠兵衛が創業)
・住友財閥(初代総理事広瀬宰平は野洲郡出身、2代目伊庭貞剛は蒲生郡出身)
・双日
・トーメン(彦根出身の児玉一造が中心となって創業)
・兼松(前身の一つである江商は、犬上郡出身の北川与一が創業)
・ヤンマー(伊香郡出身の山岡孫吉が創業)
・西武グループ(愛知郡出身の堤康次郎が創業)
・日清紡
・東洋紡(前身の一つである金巾製織は、滋賀県知事の勧奨から複数の近江商人が創業)
・東レ
・日本生命保険(彦根出身の弘世助三郎の呼びかけで創業)
・ワコール(仙台出身神崎郡育ちの塚本幸一が創業。社名は「江州に和す」に由来)
・西川産業(八幡出身の西川仁右衛門が創業)
・武田薬品工業(日野発祥の薬種仲買商である近江屋喜助からののれん分け)
・白木屋(長浜出身の大村彦太郎が創業。1967年に東急百貨店に吸収)
・三中井百貨店(神崎郡出身の中江勝次郎が創業。1945年の終戦とともに消滅)
・ニチレイ(前身である帝国水産は、野洲郡出身の西川貞二郎らが創業)
・西沢本店「アルバ」「トゥインクル」(ルーツが異なる同名の別企業であるが、どちらも滋賀県内で創業したのち佐世保へ移ったという共通点がある)
(以上、「Wikipedia」参照)
そうそうたる企業がずらり。驚くべし! 「近江商人」!
そういえば、現役時代。そろそろ欲しいなあと思っていて、何人も営業マンが来るのですが、今一つ乗る気にならない。
するとタイミングよく、必ず御用聞きにくる営業「じいさん」がいました。ストレートに売り込むのではなく、あちこちの同業者の噂とか実態とかの情報をおもしろおかしく話しながら、実に急所をついていて、うまくこちらの心をくすぐり、結局、その商品を採用することになります。
その人につけたあだ名が「近江商人」。的確かどうかはかなり語弊がありますが・・・。あの方は今どうしているか?
現・古をうまくマッチさせた建物。紅殻塗りもおしゃれ。
そしてさりげなく自己主張する「飛び出し」坊や。
右手にある「西厳寺」には「肩がえの松」。
小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。
旅人足等が子の松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である。
しばらくは古い家並みがちらほら。「東海道小野村 飴屋」。
町並みを振り返って望む。
しばらく進み、「名神高速・栗東IC」と「国道1号線・8号線」をつなぐ道路のガードをくぐると、
「行者堂」。ここは「手原」の地。
右手に「国指定の有形文化財」の建物があります。
「東海道手原村 手原醤油 塩屋藤五郎」。
その先、左手に「稲荷神社」。「手ハラベンチ」が。
ちょうど午後1時。手のひらのベンチ。座り心地はいまいちですが、そこに座っておにぎりを食べながら休憩。
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