おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「江尻宿」。稚児橋。追分羊羹。ちびまる子ちゃん。清水の次郎長。・・・(興津から静岡まで。その2。)

2015-01-22 20:59:08 | 旧東海道
 ここから、「江尻宿」。ほぼまっすぐな道筋。国道1号線(東海道)の一本西側の道になる。旧道は落ち着いた町並み。

旧家の趣。

 国道を渡り、正面にJRの鉄橋が見えてきたら、右折する。

「テーラー雀荘(じゃくそう)」。
 かつては麻雀屋さんだったのか? 英国紳士服の仕立屋さんらしい。

 この付近が宿場の中心地だった。

 アーケードが続きよく整備された商店街だが、平日のお昼前とはいえ、人通りも少なく、お店も開いていたら移、閉まっていたり・・・。

店先の「東海道江尻宿スタンプポイント」。

 現在のJR「清水」駅。昭和初期には「江尻」駅と呼ばれ、駅の位置も「江尻宿」に近いところにあった、らしい。

クジラのモニュメント。

 清水港はマグロなどの遠洋漁業の基地。クジラとも無縁ではない。清水港には、「国際水産資源研究所」がある。ここは、遠洋における水産調査活動を行う組織。主にマグロ、クジラなどの資源管理に関わる調査、研究を行っている、という。
 かつて、清水港は、遠洋でのクジラ漁やイルカ漁などの基地でもあった、らしい。今は国際的な批判にさらされ、商業捕鯨は禁止され、まったくその面影はない。マグロも今後どうなるか?
 その昔、沿岸捕鯨も含めて、クジラ漁は盛んだった。南氷洋に出かける捕鯨船団。「捕鯨オリンピック」などという、今じゃ考えられないようなマスコミ用語もあって(あったような気がする)、まるで日本の遠洋漁業の威信にかけて獲っていた頃も。
 小学校でも、給食には「クジラの竜田揚げ」が定番メニュー。また、高校に通学する途中に、その名もズバリ「くじら屋」というお店があり、繁盛していて、教師も生徒もよく出入りしていた。昭和30年代から昭和40年代前半の話。
 たまに、あの懐かしい「クジラの竜田揚げ」を思い出す。

 そういえば、常用漢字で「魚」偏のつくものは、「鮮」と「鯨」だけだと聞いたことがある。それほど、日本人の食文化には「鯨」はなじみ深かった。
 そう、幕末、アメリカが日本に開国を迫ったのも、そもそもが捕鯨基地、補給基地としての要求だったと聞いたこともあるが、真相は?

「「江尻宿解説板」。

東海道 江尻宿

 むかし「矢倉の辻」より、秋吉町の東側に称名寺集落があり、また吉添町・大手町辺りに元宿という小字名が残っているので、その周辺がもとの江尻(家尻)の宿場があったと思われる。
 時代の変遷により、今川氏の頃から、この江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。
 慶長6年(1601)徳川家康は、東海道五十三次を定めるにあたり、それまで今の北街道が主要街道であったものをあらため、銀座通りを通すこととし、この地を江尻宿とした。
 慶長12年(1607)巴川に初めて稚児橋が架けられ、交通が便利になり、江尻宿は上町(魚町)、中町(仲町)、下町(志茂町)の宿通りを中心に、西は入江町の木戸、東は伝馬町・鋳物師町・鍛冶町・本郷町から辻村の木戸まで長さおよそ2キロメートルであった。
 宿は伝馬町と魚町で鈎の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっているのは、万一の場合の警備のためであった。
 宿には、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣3軒、それに準ずる脇本陣3軒と一般の旅籠屋が50軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた。江尻宿の昔の姿であった。

 江尻地区まちづくり推進委員会

   

 この角を左に折れる。

 「巴川」に架かる「稚児橋」の手前に「河童まんじゅう」。


   
                 「稚児橋」。             河童のモニュメント。
            
稚児橋の由来

 慶長12年(西暦1607年)徳川家康の命により、東海道五十三次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日とはなった。
 さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り、忽然と入江方面へ消え去った。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けられたといわれている。
 なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。
 清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童がいるのは、この伝説による。

                           
                                橋の欄干にも。

 橋を渡って二つ目の信号のある三叉路を右に行く。
       来た道を振り返る。

「江尻宿木戸跡」。
 ここが宿場の「西木戸」に当たる。

その場所から宿内を望む。


 江尻は現在の清水港である。ここから愛鷹山、箱根、伊豆半島までを遠望し、その手前に三保の松原を描き、白帆をはらませた船と停泊している船、街並までが描かれている。港の繁忙ぶりとうららかな春の風景である。江戸より約41里の地点であり、全体のほぼ三分の一経過した。

大正期の清水。

(「」HPより)。

 ここで、「江尻宿」ともお別れ。時間があれば、「三保の松原」に行くべきだったが。

 しばらく直線の道を進む。左手に石柱。

                      「是より志ミづ道」。

 そのすぐ隣にあるのが、「追分羊羹」のお店。

   

 「追分羊羹」といえば、「ちびまる子」ちゃんの地元。お店の裏手にある小学校「入江小学校(現在は「清水入江小学校」)」が舞台。

ちびまる子ちゃんと入江小学校
 
1.清水市立入江小学校
 清水市街に比較的近い静閑な場所に位置する小学校です。 入江小学校のすぐそばには、旧東海道があり現在も多くの車が行き来しています。
 学校自体の特色というものはこれと言ってありませんが、 原作ちびまる子ちゃんで登場している運動会での沖縄民謡披露や、 ちょっと変わった仮装行列などは実際に在学当時に行われていました。
 また静岡県に多くの被害をもたらした七夕豪雨では、原作通り入江小学校にも被害をもたらしました。 校舎1階は浸水し、かなりの被害が出ています。
 ちびまる子ちゃんに登場する多くのキャラクター達も入江小学校から生み出されています。 さくらさんがエッセイで話されているように、ハマジ、たまちゃん、カヨちゃん、ケンタなどは実在し、 ブー太郎などはそれっぽいキャラクターが当時居たと言っています。花輪君については、小学校時代だけでなく、今までの人生の中で出会ったキャラクターがミックスされて出来上がったキャラクターだと話されています。
 花輪くん、丸尾くんについては、小学生当時に非常に似た名前の人がおり、 私の視点から見てもこの人がモデルかなって思う人は実在していました。
 
2.入江小学校の付近 ~文進堂~
 入江小学校正門のすぐそばにある文房具店です。現在は残念ながら、お店は閉められていますが在学当時はよくお世話になったお店の1つです。さくらさんも家の方向から、この正門側にある文進堂でお世話になっていたのだと思います。学校の裏門側にも、文房具店が1軒あります。
 文進堂は、アニメの方でたまに登場してきます。”まる子、こずかい帳をつける”のエピソードでは、 まるちゃん、たまちゃん、藤木の3人で文進堂で小遣い帳を買った設定になっていました。
 
3.入江小学校の付近 ~追分羊羹~
 アニメでは清水名物としてたびたび登場する追分羊羹の本店です。お店は旧東海道沿いに位置しており、住所もズバリ清水市追分です。この追分羊羹本店付近は住宅街と言った感じで、ここより西側にはお店といったものは余りありません。 逆に東側にはスーパーなどが多くあり、大きな交差点を隔てて更に東に向かうと入江商店街へと入っていきます。
 この追分羊羹と言えば、やはり羊羹ですが和菓子なども販売しています。 ちびまる子ちゃん効果があったのか判りませんが、 たまに大型バスで観光客の方達が買いにみえていることがあります。

4.入江小学校の付近 ~通学路~
 さくらさんの自宅は、この入江小学校から東に10分ほど歩いた場所にあります。追分羊羹のある旧東海道を歩いて行けばいいのですが、道幅の関係から歩道の整備はされておらず、住宅街の路地を通学路とするように小学校から指導されていました。
 アニメや漫画では、たまちゃんといつも一緒に通っている設定になっていますが、家の方向は一緒なのですが、たまちゃんの家の方が小学校からは圧倒的に近い距離にあります。

(www.geocities.co.jp/HeartLand/8752/chibi_s_01.htm)HPより

 お店からすぐ先のところに、清水の次郎長に討たれた侠客・都田(通称都鳥)吉兵衛の供養塔がある。

   

都田吉兵衛供養塔

 春まだ浅き文久元年(1861)正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。
 此處を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。

 入江まちづくり推進協議会 清水観光協会

 一本、卒塔婆が立てられていた。

 清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)

 幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
                                          (「Wikipedia」より)

・・・

「清水みなとの名物は、お茶の香りと男伊達・・・」

 幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた世紀の大親分、清水の次郎長。広沢虎造の浪曲をはじめ、数々の時代劇、映画などによりその武勇伝も、今日まで多くの人に親しまれている。特に咸臨丸の件や山岡鉄舟との逸話は有名。

 次郎長の生家は清水港近く。「次郎長通り」と名付けられた商店街にある。次郎長の写真や使った道具類、資料などを展示。居間も当時のまま保存されている、らしい。

 清水出身の叔父は、戦後、新宿西口のテキ屋の親分。組名を出せば、たぶんバレる。日本刀を抜いたまま若い衆が何人も飛び出していくのを目撃したことも。・・・(余談)

 しばらく進むと、「金谷橋」。

   

 追分と金谷橋の今昔

 昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。
 周囲には数軒の家が並び街道の漁際は松並木が続き、その外側は田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。
 往来の旅人は土橋であった金屋橋wお渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は橋際の土手を下り渡川して土手に上がり街道に合流した。
 古来、牛道と言われた名残を今にとどめている東海道の史跡である。

 

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