同じ所からの写真ですが、写真がぶれているように感じませんか。特に左側。目の錯覚? 手前の看板は焦点がぼけていません。鉄橋の構造が?
実際には違和感はありませんでしたが、投稿してみて面白く感じました。
東武線の鉄橋の手前で土手を下りて、「葛西親水公園」に。
「葛西用水元圦(いり)跡」碑。
※【圦】《「圦樋(いりひ)」の略》土手の下に樋(とい)を埋め、水の出入りを調節する場所。水門。樋口(ひぐち)。樋(ひ)の口。
葛西用水は万治3年(1660年)徳川幕府の天領開発策により関東郡代伊奈半左衛門忠克によって、利根川右岸、現在の羽生市大字本川俣の地に取水口の設置と用水路が開鑿され、以来永年に亘り幾多の変遷を経て農業用水を取水してきましたが、水資源開発公団(現 独立行政法人水資源機構)による利根大堰および埼玉用水の完成に伴って昭和44年(1969年)にこの元圦を廃止するに至り、以後埼玉用水の葛西用水分水工から取水することになり現在に至っています。
そして、この旧元圦樋管吐口及び、用水路跡地は羽生市のご理解により葛西親水公園として生まれ変わり、地域住民の憩いの場として利用されています。
「葛西用水取水口跡」
葛西用水は見沼代用水、明治用水とともに日本三大用水と称され万治3年(1660年)関東郡代伊奈忠克によって開削され、昭和43年(1968年)埼玉用水完成にいたるまで308年間通水し、東部穀倉地帯をうるおしてきた。通水量毎秒16トン灌漑面積6,500ヘクタールにおよび羽生市の治水にもきわめて大きな関係があり史跡として指定した。「水清く 人美し」。
※「明治用水」=西三河地方南西部に農業用、工業用の水を供給する用水である。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万石以上の収量となった。(当時、岡崎藩が5万石)
(この項、「Wikipedia」より)
「明治用水」は、「東海道」歩きの際、三河安城付近で出会っています。
現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などになっています。
・・・
昭和47年(1972)のようす。
写真左側が明治川神社と鳥居で、奥の橋が東海道(旧国道1号線)。神社と明治本流との間には、県道豊田安城線があります。
・・・
昔の葛西用水圦樋管。
昭和43年までの旧圦樋管
現在の葛西用水分水工。
奥に見えるのは、明治27年(1894)建設のレンガ造りの樋管を復元したもの。利根川とはつながっていません。
羽生市として、「利根川」スパー堤防建設の進捗により、現在の「葛西親水公園」を別の場所に移す構想があるようです。
そのせいか、四阿などほとんど整備がされていないようす。公園の朽ちたようなベンチに座って休憩しようとしましたが、「まむし注意」の看板を見て、すぐに退散!
四阿。
常日頃、身近に接している「曳舟川」の源がここにあったわけです。機会があったら、ここから墨田区まで歩いてみようと思います。
ここから遠く墨田区まで。
「埼玉用水」から取水。
この先で、「葛西用水」から離れ、東武伊勢崎線「羽生」駅に向かいます。
駅近くで松尾芭蕉の句碑を発見。「春もやゝ けしきととのふ 月と梅」。
向島百花園でおなじみの句です。
ここで出会うとは思いませんでした。
道路を挟んだ北側にある神社は、「毘沙門山古墳」の塚上にあります。その神社と関連がありそうです。
毘沙門山古墳
全長64m、高さ5m、後円部直径約35m、前方部を西に向ける2段築成の前方後円墳です。
明治36年東武鉄道の線路敷設のため前方部西側の一部が切り取られ、その際に埴輪の破片が発見されました。築造年代は、埴輪から6世紀後半代と考えられています。なお、毘沙門山古墳の東南方の毘沙門塚古墳(「塚畑」と呼ばれていた所)から、昭和32年に円筒埴輪が発見されています。
(この項、「」HPより)
羽生駅から。右手が東武線、左手が秩父鉄道。右手奥の森が「毘沙門山古墳」。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます