おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

白子川と東映東京撮影所って、とりわけ関連はありませんが

2011-06-06 19:23:06 | つぶやき
 今度は、大泉学園駅から北西にある事業所に出かけました。このところ、老体に鞭打って、都内のあちこちの事業所に出かけることが増えてきまして・・・。
 でも、出かけると新たな発見があって楽しみです。前回の砧線跡もその一つ。行ってみて気がついて、その驚きが楽しいですね。「大泉学園」という駅名から「学園町」というイメージがありますが、果たして・・・。
 今回も出かける前に、gooの航空写真で「大泉学園」駅付近を確認しました。昭和22年。西南から東北にかけてうねるように緑の帯が続きます。周りは整地された田畑や住宅地がある中で、どうも不揃いで小さな田畑が続きます。その中を細い流れが蛇行しながら流れています。樹木に覆われたという感じではありません。用水路というような感じ。
 昭和38年になると、田んぼがなくなり、住宅地として整備され始めます。流れも途中で直線に改修されたりしています。そして、現在。
 それから、駅の東北には周りは田んぼや畑の中、広大な敷地の中に大小様々な建物が並んでいます。はて何かの工場かしら。昭和38年でもすでに周りは住宅地ですが、少し西側や南側に拡張されて存在しています。そして、現在。
 大泉学園駅前から和光市駅行きのバスに乗りました。乗り場がちょっと分かりにくく、ドラッグストアの前の停留所から。
 しばらくすると、大きな建物の前に停まりました。「東映東京撮影所前」。ここにあったのか、ちょっと驚きました。たしか時代劇は京都撮影所で、現代劇はここで。アニメなどもここで撮影していた!
 バスは、細い路地を右に左に曲がり、バス同士がすれ違うのもやっと。広い道路に出ると、目の前には高速道路の橋脚が。大泉jct。関越道と東京外環との合流地点。その下を通り抜けてバスは北に向かって行きました。 
 帰り。どうしようかと迷いましたが、3,40分くらいならいいやと歩いて駅まで戻りました。写真はその時に撮ったものです。
 写真で見た川の名前は、「白子川」。東京都練馬区東大泉の区立大泉井頭(いがしら)公園(湧き水)から始まり、練馬区西大泉、大泉学園町、大泉町、土支田、埼玉県和光市南、白子、下新倉、板橋区成増と流れ、笹目橋付近で新河岸川に合流するそうです。昭和22年の写真では、井頭公園からもう少し上流にも流れがあって、「新川」と呼ばれたとのことです。
 現在は、高速道路の下をコンクリートで囲われた堀割を直線で東に向かっています。
 jct近くには、この川の氾濫対策としていざというときの遊水池が出来ていて、底の浅いすり鉢状の土地には、グランドが。その近くはせせらぎ公園風に整備され、遊歩道・ジョギングコースもあったり、湧き水もあって、樹木に覆われた憩いの場所になっていました。
 ちょっと方角を間違えてうろうろしたあげく、「東映通り」の標識を見つけ、一安心。
その道を駅まで向かいました。右手には色々の商業施設の入った、華やか雰囲気のシネマ館。左手は「LIVIN」の大きな建物。
 この撮影所の歴史。
 戦前は「新興キネマ東京撮影所」として1935年(昭和10年)2月に開所(当時は東京市板橋区東大泉町)、同社の現代劇部として稼動。1942年(昭和17年)、新興が日活および大都映画と合併して大映となるとすぐに閉鎖されたが、戦後1947年(昭和22年)、「株式会社太泉スタヂオ」が東急の資本によって設立され、貸しスタジオとなる。この時代に新東宝が借りて『野良犬』(黒澤明監督)が撮影される。同社は「太泉映画株式会社」と改称して自社製作に乗り出す。
その後、東映のスタジオとして1951年(昭和26年)4月1日、東横映画(撮影所)、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して、「東映株式会社」を設立、東横映画撮影所は「東映京都撮影所」に、太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」となった。
 (以上、ウィキペディアより。「大」が「太」となっているのが興味深い。単なる間違いとは思えませんが)
 現在、かつてオープンセットであった敷地内にLIVINオズ大泉店、旧正門のあったあたりにシネマコンプレックス「T-JOY大泉」が併設されていますが、敷地に入ると撮影所は今でも現役のようです。京都太秦の撮影所は観光コースとして一時ほどではないですが、賑わっています。時代劇と現代劇の撮影場所という違いでしょうか。
高速道路下
右が白子川の流れ、左手が遊水池。
湧き水
撮影所内の建物、昭和38年の航空写真にも写っている。
撮影所前の通り
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これでいいのか、大阪府民の皆さん

2011-06-05 10:12:26 | つぶやき
大阪維新の会提案、定数削減も成立 紛糾、未明の採決(朝日新聞) - goo ニュース
 君が代起立条例といい、この件といい、最後は数の力で決着をつける。選挙で過半数を取ったのだから、府民の信託を得ているのだから、と。自らの政治的主義・主張(それほど党派の中で議論したのかも疑問)、それらすべてオーナーであるハシモト知事の言いなりのまま、彼の意向を法案というかたちで作り、議会での議論もほとんどないまま、多数決によって採決する。
 こういうやり方をする「政党」を府民は選挙で多数にしました。結局は、数がすべてだ、とこういうやり方を認めたのだ。
 ハシモトのやり方は、自分の気にくわない(政治信条に合わない)敵をことさら作り出して、扇情的に徹底して攻撃する。教育問題では組合。今回は議員。
 府民(強いては国民)の不満の矛先(府民・国民の閉塞感を巧みに利用して)を一方的に決めつけて(鮮明にして)えげつないほど煽り、結局は、問答無用で通す。
 そこには、相手をいくら説得しても無駄! という論法。今回もかえって一票の格差が増すのにもかかわらず・・・。
 常に彼らのやり口は、問題をきわめて単純化する手法。○か×かで選択させた小泉手法にも似ている。もっといえば、ナチスの取った手法まがい。
 イシハラさんですらここまではしなかった(自前の政党・思いのままに操れる政党は作れなかった)のだが。
 これでいいのか、大阪府民。余計なお世話だ、とお思いでしょうが。
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かつて自分はどうだったのか、と普通の感性なら自問自答し、恥じるものですが

2011-06-04 10:22:35 | つぶやき
鳩山氏「約束守れなかったらペテン師」 菅首相を批判(朝日新聞) - goo ニュース
 怒り心頭に発している、鳩ぽっぽさん。「首相を辞したら議員も辞する」とかという、かつてのご自分の発言をものの見事に覆して、議員生活に居直りを決め込み、親からの政治資金を知らなかったと「しら」を切り、国会議員としての永年表彰までちゃっかり受けて・・・。他人・国民を見事に騙したツケが自分に回ってきた、とは思いませんか。
 夕刊フジは、そういうハトヤマさんに独占インタビュー。菅さんへの怒りを掲載しています。記者もハトヤマさんのかつての変節ぶり、ペテン師ぶりを聞こうともしなかったようです。「敵」の「敵」は「味方」。
 各マスコミ。号外・臨時ニュースで「菅さん辞任表明」と大見出しで取り上げた。本来なら「不信任案否決」という号外がふさわしかった、と思いますが。そういう風に言っちゃた以上、マスコミも引っ込みが付かなくなってしまって、朝日も毎日も早く辞任表明をしろ、と社説でも、一面でも書いています。ちょっと前とはずいぶんとスタンスが異なるような・・・。
 いずれにしても、菅さんが発言したように「若い世代」にバトンタッチする方がいいでしょう。菅・鳩山・小沢の三つどもえの政争の時は、とっくに終わらせなければいけませんから。
 それにしても、「朝日」のコメントではありませんが、王手飛車角を狙って一つの歩も取れなかった自民党の政治力も、すっかり地に落ちてしまったものです。
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目処・目途・めど・メド、果たして・・・

2011-06-03 22:27:01 | つぶやき
ある派閥領袖「顔に泥、何もかもぶちこわしだ」(読売新聞) - goo ニュース
 「大山鳴動して鼠一匹」。
「大震災への取り組みに一定のメドがついた段階で、若い世代に責任を引き継いでいきたい」(讀賣新聞)
「震災対応に一定のめどがついた段階で辞任する意向を表明し」(朝日新聞)ただし、大見出しでは、「メド」。
「菅総理大臣は、党の代議士会で、東日本大震災からの復旧・復興や東京電力福島第一原子力発電所の事故の収束に一定のめどが立った段階で、退陣する意向を明らかにしました。」(NHKニュース) 
もくとが付いたら・・・」自民党・石原さんの賛成討論での発言。ただし、どういう漢字かは不明。
 これでは、メド一つとってもメドが立たないですね。

めど 【目処
大辞林によると
目あて。目標。見当。「仕事の―が立つ」
――が付く
見通しがはっきりする。予測がつく。
――を付ける
見当をつける。目星をつける。
広辞苑によると
目指すところ。めあて。だいたいの見当。目標。「―がつく」「―が立たない

もくと 【目途
大辞林によると
めあて。見込み。
もくと 【目途】
広辞苑によると
(1)めあて。目的。
「蓄財の―は/文明論之概略(諭吉)」
(2)目標。めど。「来年完成を―に工事を急ぐ」

結論めいたもの。
 どちらも意味には大きな差がないようですが、話し言葉では、【目処】めど は、良く使いますが、【目途】もくと、とは云わないですね。(以上、Okwave)
 いずれにしても、鼠二匹のうちの一人、内閣不信任決議案に賛成票を投じた横粂勝仁衆院議員。国会内で、「菅さんが替わるべきだという賛同者があれだけいながら、結果として、少数の方しか賛成に投じない。それは裏に何があったか、国民は不思議に思っているし、私も不思議だなと。・・・」
 そして、もう一人、松木さん。TV中継中(それも石原さんの発言画面そっちのけでTVカメラに映されていました。)いろんな議員がやってきては肩を叩いたり、手を握ったり・・・、本人は笑ったり眼鏡を拭いたり顔を拭いたり・・・、もうその仕草が面白かった。そのあげく(説得の甲斐もなく)賛成票を投じたのでした。
 あてのはずれた「産経新聞」は、
「首相は1日の党首討論で、今年末までを視野に今国会を大幅に会期延長する考えを示唆した。首相が2次補正成立までその座にとどまるならば、まだ半年以上ある。不信任決議案は慣例上、一国会に一回しか採決できない。首相が『自発的に辞任』するまで、日本の政治的危機を解消する手立ては失われた。」と悔し紛れの論評。
 それにしても、自民党の領袖のコメント「顔に泥」。被災地では多くの方が津波でやられ、泥だらけの状態で遺体が発見されたり、危うく命が救われた方もいるのに、こういう言い方はないと思いますが。
紙芝居でも、もっと面白い。でも、観客は若い女性一人でした。浅草・花屋敷前。
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玉電砧線跡と野川

2011-06-02 20:10:59 | 鉄道遺跡
 今回は、「玉電(玉川電気鉄道・東急)と野川」という趣向です。
 東急電鉄「二子玉川」駅。通称「ニコタマ」。かつての駅名は、「二子玉川園」。駅を降りて北の方角が目的地。多摩堤通りをけっこう歩きました。途中の「吉沢橋」交差点。クロスする通りの手前には見慣れた緑道が右に折れて続きます。見慣れた、そう、この道筋は、かつての線路跡ではないか、日頃の嗅覚で近寄ります。そこには「砧線跡」という説明板が。この辺りは、これまで縁遠かったので驚き。
 ちょっと道からそれて吉沢橋を渡っていくと、玉電の写真がレリーフとして橋桁に。玉電について解説した碑がありました。下に流れるのは、野川。
 砧線は、二子玉川園を発車後、ほぼ90度のカーブを描いて国道246号(玉川通り。西に進むと御殿場の先の方まで。東は、渋谷を越えて青山通りとなります。旧称は、大山街道)を横断、現在の二子玉川小学校南側の「中耕地」を経て西に進み、多摩堤通りと平面交差して「吉沢」に至り、吉沢橋で野川を渡り、東京都水道局砧下浄水場(旧渋谷町立浄水場)脇を通り、砧本村までの全長わずか2㌔あまりの鉄道。
 開業は、1924年(大正13)年。二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始しました。砂利輸送を主目的としたことから、「ジャリ電」と呼ばれることもあったという。
 玉電(玉川線)そのものが、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として路線開設が出願されたことが起源で、1907(明治40)年、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業しました。
 玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置されました。
 この砧線の線路跡地は、二子玉川駅付近を除き、道路(一部は、歩行者専用)として整備されています。「中耕地停留所跡」地の歩道上には、砧線が走ったことを示すレリーフが埋め込まれ、駅跡には石碑が建てられている、とのこと(時間がなくて見に行けませんでした)。
 2007(平成19)年、現在の吉沢橋が、少し上流にあった新吉沢橋と合わせて架橋し直された際に、玉電についての解説文の碑と欄干には玉電のレリーフが埋め込まれたそうです。
 停留所も少なくて、1947(昭和22)年当時の航空写真では、「中耕地」という駅名が示すように、線路の周囲は田んぼや畑の田園風景が広がっていました。
 終点の砧本村停留所前には、戦前、「わかもと製薬」の工場があり(商品としては胃腸薬の「強力わかもと」が有名?)ました。その跡地は現在、駒澤大学玉川校舎となっています。
 さて、玉川電気鉄道は路線を拡張、1925年(大正14年)、三軒茶屋-下高井戸間に支線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線、同年には溝ノ口線(玉川 - 溝ノ口)を開業しました。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となっていました。
 現在「二子玉川」駅ホームの大半は、野川・多摩川の川の上にあり、そのため、駅入り口は北側に一箇所。南側のホームの先端は細くなっています。
 1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、砂利輸送からは撤退し、軌道線は旅客輸送が中心となっていきます。1938年(昭和13年)、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併され、1942年(昭和17年)、社名変更に伴い東京急行電鉄となり、現在に至ります。
 かつての駅名「二子玉川園」は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前から玉川第二遊園地や玉川プールなどが開設され、行楽地として開発されました。玉川第二遊園地は、のち二子玉川園となり、同地には映画館「二子東急」も設けられ、行楽地として栄えましたが、1985(昭和60)年に閉園しました。跡地にスポーツ施設やナムコ・ワンダーエッグ、いぬたま・ねこたまなどのテーマパークが建設されました。2000年代に入って、二子玉川駅東口から二子玉川園跡地にかけて再開発計画が進行しています。将来は東口一帯に2棟のタワーから構成される大規模な商業地域・ホテル・住宅地域が建設される予定ですが、環境破壊につながるとして、反対運動も起こっています。
 「吉沢橋」で越える野川。国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発する川。小さな河川を合流させながら、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、二子玉川駅のホーム下をくぐった先で多摩川に合流します。
吉沢橋上の説明板
吉沢橋を渡って砧本村に続く線路跡(道路)
歩行者道路となっている線路跡
緩やかなカーブが線路を彷彿させる。
二子玉川駅ホーム。田園都市線と大井町線の合流駅。たくさんの乗降客がいます。
ホーム上からの野川(右)と多摩川(左)
吉沢橋からの野川。中央奥が二子玉川駅方向。
野川。清流に大型の鳥が一羽。
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